大阪城というと豊臣秀吉,という強いイメージがある.
天正10年(1582年)6月に織田信長が本能寺の変で倒れた後,当時備中高松城攻略に当たっていた秀吉は,直ちに軍を返して(中国大返し)明智光秀を討ち(山崎の戦い),その後の清洲会議,柴田勝家との賤ヶ岳の戦いを経て信長の後継者の地位を手に入れた.
その秀吉の天下統一の城となったのが大阪城である.ここは戦国時代には石山本願寺があったところだ.寺とは言いながら石垣をめぐらすなど一種の要塞の趣だった石山本願寺だが,信長との10年に及ぶ戦に敗れて天正八年(1580年)に炎上・焼失した.そして信長死後の天正11年(1583年),秀吉がその跡地に大阪城を建てたのである.
秀吉の大阪城は本丸の増築だけでも1年半を要し,全体が完成したのがが秀吉自身の死の頃だったというほど巨大な城である.三重の堀や運河,外観五層の天守には金箔が使われるなど,まさに天下人の城と呼べるものだったようだ.
しかし,慶長19年(1614年)の大阪冬の陣の講和の結果,三の丸,二の丸は破壊され,大阪城は本丸のみの裸城になってしまう.そして翌慶長20年(1615年)の大阪夏の陣で豊臣氏の滅亡と共に完全に焼失してしまったのである.
その後,江戸幕府2代将軍の徳川秀忠によって再建されたのが今に残る大阪城である.秀吉時代の大阪城は完全に破壊されてしまったため,今の大阪城は安土桃山時代のそれとは異なる,全く新し
い城ということになる.縄張りは秀吉時代の4分の1に縮小されてしまったが,石垣や天守閣はより高く,堀はより深いものとなったとされている.
江戸時代を通じて大阪城は幕府直轄とされてきたが,京都の二条城とともに,3代将軍家光が滞在した後は幕末に至るまで歴代の将軍が訪れることはなくなっていた.
慶応2年の第二次長州にあたって第14代将軍家茂が大阪城に入城,結局彼は心労がたたったのか同年7月ここで没した.さらに慶応3年,大政奉還・王政復古のクーデターの後,15代将軍徳川慶喜が大阪城に入り新政府軍と対峙したのである.戊辰戦争において大阪城は戦場にはならなかったが,戦後の混乱の中,大阪城は再び炎上してしまった.
明治維新後は陸軍省の管理下に置かれたが,第二次大戦後に大阪城公園として整備され現在に至っている.それ以前,昭和6年(1931年)には当時の大阪市長の呼 |
大阪城再建天守 |
巨大な堀 |
六番櫓(重文) |
千貫櫓(重文) |
一番櫓(重文) |
桜門(重文) |
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