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 日本100名城スタンプラリー


 49.小谷城


 戦国時代末期,天下布武を掲げて戦った織田信長最大の危機が,元亀元年(1570年)の越前金ヶ崎の戦いである.
 京都を拠点に周辺の大名を勢力下に収めつつあった信長は,敵対していた朝倉義景を攻めるために越前に出陣した.当初織田軍が優勢であったが,彼の義弟(信長の妹,市の夫)で同盟関係にあった北近江の浅井長政が反旗を翻し,一気に前後から挟み撃ちにされる態勢になったからである.これは元々浅井と朝倉は盟友関係にあり,織田と浅井が同盟するにあたって,織田は浅井に断りなく朝倉を攻めないという取り決めがあったのを信長が破ったことによるので,予想できる範囲内ではあった.この時信長は木下秀吉(豊臣秀吉),池田勝正らの奮戦によって九死に一生を得ることができた.この時信長を追い詰めた浅井長政の居城が小谷城である.
 小谷城は琵琶湖の東岸,標高約500メートルの小谷山と,そこから南に伸びる尾根筋に築かれた典型的な山城である.北の山王丸から小丸,京極丸,本丸など多くの曲輪が横一列につながった,いわゆる連郭式の縄張りになっている.築城時期は長政の祖父亮政の時代,16世紀初めといわれており,以来長政まで3代にわたって浅井氏の居城となっていた.この城がいかに堅固だったかは,元亀元年(1570年)6月の姉川の合戦で大敗を喫して城に逃げ 帰った浅井氏を信長はすぐに攻撃できず,結局小谷城を落城させるためには,さらに4年の年月を要したことでも理解できる.
 浅井氏滅亡後この地は羽柴秀吉の担当となったが,秀吉は琵琶湖岸に長浜城を築き居城としたため小谷城は廃城となった.戦国時代の城跡であり当時の建造物はもちろん残ってはいないが,尾根線に沿って築かれた曲輪の様子はよく保たれており,堀切や当時はまだ珍しかった石垣なども見ることができる.
 散策ルートはあるものの,遊歩道などが整備されているわけではないので登城にはかなりの気力と体力を必要とする.本丸から少し離れたところに浅井長政自刃の地といわれる赤尾屋敷跡があるのだが,ここに向かう途中でカモシカに遭遇した.体力的にキツイ城跡なので,晩秋から冬にかけて気温の低い時期の登城がよいと思われる(雪の日は除く).
 (登城日 2009年2月7日)

この小谷山全体が城です

大手門(復元)

こんな道を登っていきます

本丸

カモシカがいました!
 
     

本丸の石垣

本丸・中ノ丸間の空堀

山王丸の大石垣
 

最も高地にある山王丸


山王丸から見える市街と琵琶湖の展望

浅井長政自刃の地(赤尾屋敷跡)
 
 
小谷城へのアクセス: JR河毛駅からコミュニティバス小谷山線で10分程度(時刻表 定時便の他予約便もあります),レンタサイクルもあるようです.   

スタンプの設置場所 麓の小谷城戦国歴史資料館受付にあります

登城のハード指数(★★★ かなりハードです) 資料館から大手道を通って尾根沿いに各曲輪を見学していくと,山王丸まで1時間近く山登りになります.


スタンプ
 


 

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