三重県に存在する日本100名城は2つあって,そのうちのひとつが伊賀上野城である(もう一つは松阪城).
伊賀上野城のある伊賀市は,今でこそ主要交通路から外れているが,律令時代から江戸時代の初めにかけては東海道の道筋にあり,京都や大阪と関東とを結ぶ重要拠点だった.このため戦国時代から江戸時代の初期にかけてここに城が築かれたのである.
この地に最初の近世城郭を築いたのは洞ヶ峠で有名な筒井順慶の養子筒井定次である.筒井氏は本来大和郡山城主だったが,天正13年(1585年)秀吉によってこの地に移された.秀吉は自分の本拠地の大阪城の守備を万全のものとするため,大阪に近
い大和郡山には実弟羽柴秀長を入れようと考えた.その結果的,玉突き状に定次がこの地に飛ばされたというわけである.この時代の上野城には三層の天守があったと言われている.
秀吉の死後の関ヶ原の戦いで定次は東軍に味方したため所領を安堵されたものの,慶長13年(1608年)には失政を理由に改易となってしまった.その後この地に入ったのが藤堂高虎である.家康としては,来る豊臣氏との最終決戦に備えて,この地に要害の城を建設すべく,築城の名手と名高かった高虎を招いたものと思われる.高虎はただちに築城に着手,今に残る高さ30メートルの高石垣をはじめ,10棟の櫓や五層の天守閣など壮麗な城を築いた.天守閣は慶長17年(1612年)に大風で倒壊し,以後再建されることはなかったが,上野城そのものは藤堂藩32万石の城として江戸時代を通じて存続することになった(ただし藤堂藩の本拠は津城).
明治維新後は廃城となり場内の建築物もあらかた |
伊賀上野城 |
石垣と天守 |
巨大な堀と高石垣 |
藤堂高虎による縄張り |
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