戦国時代には数多くの合戦が行われているが,武田氏没落の要因のひとつとなった「長篠の戦」は非常に有名である.通説では織田・徳川連合軍が当時新兵器だった鉄砲三千丁を三段構えに射撃して,武田の騎馬隊を撃破したと言われているが(黒沢明監督の映画「影武者」が有名),最近では異論もあるようだ.
そんな長篠の戦であるが,戦いのきっかけとなったのが天正3年(1575年)の武田勝頼による長篠城包囲である(実際の主戦場となったのはここから3〜4km西の設楽原).
長篠城は16世紀の初めに菅原元成によって築かれ,一時武田氏の勢力下におかれたが天正元年(1573年)徳川家康によって攻略され,以後は家康側の城となった.この時に今に残る城構えが作られたといわれている.
豊川と宇連川という二つの川を天然の堀とし,その合流地点の断崖上に本丸が築かれ,そこから後方に二ノ丸が,さらに後方に巴城郭が設置され,各部の間には堀もほられていた.実際に川の合流点に立って見ると,川を越えてこの城を攻めるのは(近代以降のように大型の大砲があれば別だが)極めて困難な,難攻不落の城であることがわかる.天正3年の長篠の戦の前哨戦の際もわずか500人の城兵で15,000人の武田軍の攻撃をしのぎ切っているほどである(この戦いにおいて,家康や信長 |
牛渕橋からの城の全景 |
長篠城本丸 |
武田軍に捕らえられながらも,援軍がすぐそこまでやって来ていることを城兵に告げ磔にされた鳥居強右衛門の墓である |
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