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 日本100名城スタンプラリー


 44.名古屋城


 尾張名古屋は城で持つと歌われた名古屋城は,愛知県の県庁所在地名古屋市の中心にある城である.
 名古屋城の元となったのは戦国時代に今川氏によって築かれた出城で,当時は那古野城と呼ばれたらしい.その後享禄5年(1532年)に織田信秀がここを占領し,以後その居城となった.しかし続く信長は清州城に拠点を移したため,那古野城は廃城となってしまった.
 関ヶ原の戦いから江戸開府の後,豊臣氏との最終決戦を決意した徳川家康は東海道の防衛拠点としてこの地に注目,尾張の中心地を清洲からここに移すことを決定,こうして慶長14年(1609年)から築城が開始されることになる.この工事は福島正則,加藤清正ら豊臣恩顧の西国大名が多数動員されるなどの天下普請であった.
 名古屋は江戸時代を通じて尾張藩62万石の城下町として栄えた.藩主は徳川御三家筆頭,尾張徳川家である.徳川将軍家に次ぐ家格で諸大名の最高位に位置し,将軍に後継ぎがない場合には将軍を輩出できる家柄であるが,結局江戸時代を通じて将軍を出すことはなかった(紀伊徳川家からは8代将軍吉宗,14代将軍家茂が,水戸徳川家からは15代将軍慶喜が出ている).歴代藩主の中では経済政策をめぐって8代将軍徳川吉宗と対立した7代藩主徳川宗春が有名である.
 明治維新後,城自体は廃城とったが,天守や本丸御殿など主要な建築物は遺され,昭和5年(1930年)にそれらは国宝に指定された.しかし太平洋戦争末期,昭和20年(1945年)5月14日の空襲によってその多くが焼失してしまった.
 現在名古屋城の遺構として残されているのは3つの櫓(西北隅櫓,西南隅櫓,東南隅櫓)といくつかの門,石垣,堀などである.その一方再建も行われており,昭和

外観復元された大小天守

東南隅櫓(重文)

西北隅櫓(重文)

外堀と石垣
 
34年(1959年)に天守が鉄筋コンクリート製で外観復元され,現在は本丸御殿の再建が行われている.
 (登城日 2008年12月28日)
 

西南隅櫓(重文)と天守

再建された正門

二ノ丸大手二ノ門
 
 
名古屋城へのアクセス: 地下鉄名城線市役所下車すぐ(JR・名鉄金山駅での乗換えが便利)  

スタンプの設置場所 東門と正門の受付にそれぞれあります

登城のハード指数(★☆☆ ハードではありません) 見て回るには少し広いですが,よく整備された都市公園です.


スタンプ
 


 

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