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 日本100名城スタンプラリー


 41.駿府城


 駿府城のある静岡県東部は駿河国と呼ばれ戦国時代には今川氏が支配する土地であり,当時は簡単な陣屋があった程度だったらしい.しかし永禄三年(1560年)の桶狭間の戦いを契機に今川氏が滅ぶと西から徳川家康,北から武田信玄が侵入し,駿河はそれらの勢力下に入ることになった.天正10年(1582年)に武田氏が滅亡すると,以後は家康の支配になる.この時に初めて大規模な城郭である駿府城が造られたといわれている.ただ豊臣政権の時代になると家康は北条氏の後釜として関東に移封,代わって秀吉恩顧の大名(中村一氏)が入ることになった(これはもちろん秀吉の家康に対する牽制である).
 江戸開府後は家康譜代の内藤信成が入り一時駿府藩が立藩されたものの,まもなく慶長12年(1607年)に将軍職を秀忠に譲った家康が大御所として再び駿府城に入った.この時家康は全国の大名をに命じて駿府城の大改修工事を行うとともに,城下町の造成を行った.現在に残る駿府城と静岡の街の基本はこの時にできたものである.以後元和2年(1616年)の家康の死まで,駿府城は大御所政治の中心となり,江戸と並ぶ政治の中心地として繁栄した.
 その後,江戸時代初期には家康の十男頼宣や秀忠の次男忠長など将軍に近い親藩大名がこの城に入ったが,寛永8年(1631年)に忠長が兄である将軍家光に追放されたのちは幕府の直轄地(天領)となり幕末に至る.明治元年には大政奉還からの一連の流れで隠居した第15代将軍徳川慶喜の後継として徳川家達が駿府藩主として入城したが,しかしその後の廃藩置県によって廃城となった.駿府城は本丸を中心にその周囲に二ノ丸,三ノ丸が置かれる典型的な輪郭式城郭である.江戸時代の初期には天守も置かれていた(ただし寛永12年(1635

再建された巽櫓

中堀です

東御門橋

北御門跡
 
年)火災で焼失し以後再建されなかった).明治以後は陸軍省の管轄となり歩兵34連隊の駐屯地となったため,城の建物はことごとく失われ,本丸の堀も埋められてしまった.
 近年は駿府公園として整備され,巽櫓や東御門などの建物に加えて,埋められた内堀も一部復元され往年の姿をしのばせている.
 (登城日 2008年8月23日,2008年12月20日)
 

これは当時の石垣です

二ノ丸水路

本丸跡の家康像
 
     
 
駿府城へのアクセス: JR静岡駅から徒歩10分です.   

スタンプの設置場所 駿府公園内の巽櫓・門の受付にあります.係員に言うと出してくれます(受付は9時からですが,8時50分にいっても大丈夫でした)

登城のハード指数(★☆☆ ハードではありません) 普通の都市公園です.


スタンプ
 


 

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