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 日本100名城スタンプラリー


 39.岐阜城


 岐阜城のある岐阜市は岐阜県の県庁所在地だが,近くに名古屋市という巨大都市があるせいか,なんとなく地味な印象がある(京都市と大津市の関係に似ているか?).
 しかし戦国時代末期,織田信長が天下布武を掲げた頃には名古屋は存在せず(名古屋の町が作られたのは江戸時代になってから),岐阜がこの地域の重要拠点であった.この地を岐阜と名付けたのは織田信長で,それ以前は井口と呼ばれていたようである.
 この地が歴史の表舞台に登場するのは何と言っても戦国大名斉藤道三の時代からで,当時は稲葉山城と呼ばれていた.彼は自分の娘濃姫を嫁がせるなど,信長を高く評価していたようである.しかし弘治二年(1556年)に自分の息子義龍と争って敗死,以後織田・斉藤の抗争が始まることになった.ただ斉藤義龍は政治家・ 軍略家として優れた人物であり,彼の存命中は信長もうかつに手が出せなかったようだ.転機が訪れたのは永禄四年(1561年)で義龍が急死した時からである.跡を継いだ龍興は14歳と若く,しかも父や祖父に比べるとはるかに凡庸な人物だったらしい.これがためたちまち家中が分裂し,そこを信長に突かれ,有力な家 臣だった竹中重治(半兵衛)や稲葉一鉄の寝返りなどによって,永禄十年(1567年)に伊勢長島に追放され,美濃は信長のものになったのである.これ以降稲葉山城は岐阜城と名を替え,信長の天下布武の居城となった.

ロープウェイを降りて歩いて行くと天守に至る階段が見えてくる

岐阜城の模擬天守

山頂から見える長良川と市街地
 
 岐阜城は長良川沿いにそびえる金華山の山頂に築かれた典型的な山城である.戦いのための城としては最適であるが,一方で交通は極めて不便である.このため信長は山のふもとに御殿を建ててそこで政務をとっていたようである.
 天正七年(1579年)に安土城が完成すると信長はそちらに移り,以後は信長の嫡男の信忠,本能寺の変以後の池田元助,織田秀信らが城主となったが,関ヶ原の戦いの後,徳川家康によって廃城とされている.
 現在城跡は岐阜公園として整備されている.山城ではあるがロープウェイがあるため楽に登城することができる.麓からは壮麗な天守が見えるのだが,当時このような建物があったかは不明であり,いわゆる観光用の模擬天守に属するものである.当時の遺構としては石垣や土塁などが遺されている.
 (登城日 2008年8月24日,2009年2月7日) 
 

岐阜城資料館にある信長の絵

本丸の井戸

ロープウェイから見える三重塔
 
 
岐阜城へのアクセス: JR岐阜駅または名鉄岐阜駅から岐阜バスで15分程度,岐阜公園歴史博物館前下車.運行経路・本数ともかなりあります(岐阜バス   

スタンプの設置場所 天守から徒歩数分,ひっそりと建つ岐阜城資料館にあります(入場券は天守で購入).

登城のハード指数(★☆☆ ハードではありません) ロープウェイを使えば気軽に散策できます(使わなければ…).


スタンプ
 


 

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