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 日本100名城スタンプラリー


 30.高遠城


 中央アルプスの麓に位置する高遠城は元は諏訪氏の一族高遠氏の居城だったが,甲斐を統一した武田信玄に攻められ,天文14年(1545年)に武田氏の支配下に入った.以来信玄の伊那進出の拠点とされたが,天正10年(1582年)武田氏滅亡の際に織田信長の大軍の攻撃を受けた.当時離反が相次いでいだ武田の支城の中で,もっとも激しく抵抗したのがこの高遠城である.
 落城後は織田信長配下の毛利長秀は入場するが,まもなく本能寺の変が勃発し信長は急死,その後は徳川家康の支配下に入った.江戸時代になると保科正光が入城して高遠藩が立藩,高遠城はその藩庁となった.この保科正光の養嗣子が3代将軍家光の異母弟正之である.保科正之が出羽山形に転封になると,代わって鳥居忠治が入封,その後天領時代を経て,元禄4年(1691年)内藤清枚が入り,以後幕末まで内藤家の治世となった.6代将軍家宣時代に起こった大奥のスキャンダルである江島生島事件で追放された江島が幽閉されていたのが,この高遠であった
 高遠城は三峰川と藤沢川に挟まれた河岸段丘上に造られた城であり,最高地に本丸が,その北部〜東部に二ノ丸が,さらにその北に三ノ丸,本丸の南東には南曲輪,西側には勘助曲輪などが配置され各部の間は深い空堀で仕切られている.

桜雲橋と奥の問屋門

問屋門

本丸と二ノ丸間の空堀
 
 明治維新後廃城となり,当時の建物はほとんど残っていないが,現在は高遠城跡公園として,また桜の名所として春は大勢の観光客が訪れている.遺構としては石垣や堀の他,移築された門や再建された太鼓櫓などがある.
 (登城日 2008年7月12日,2009年4月12日)
 

かつての大手門と伝えられている門

再建された太鼓櫓

高遠閣(昭和初期に建てられたもの)
 

ピンクの濃いタカトオコヒガンザクラ

たくさんの桜に包まれる,まさに桜雲橋です

上空から見た高遠城跡,桜がジャイアントカプリコのよう
 
 
高遠城へのアクセス: JR伊那市駅または伊那北駅からJRバスで30分弱です(時刻表).  

スタンプの設置場所 城跡公園北ゲートにある高遠閣の入り口においてあります


登城のハード指数(★☆☆ ハードではありません) ちょっと広めでアップダウンがある公園です.


スタンプ
 


 

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