日本100名城の中で,「〜城」という名称でないのがいくつか存在する.栃木県の足利氏館,山梨県の武田氏館,佐賀県の吉野ケ里遺跡と北海道の根室半島チャシ跡群,そして同じく北海道の五稜郭である.
五稜郭は安政元年(1854年)の日米和親条約締結によって開港された箱館の防御のために幕府の命によって安政四年に着工された.築城にあたってはヨーロッパの築城術が参考にされたという.そのため形も五角形となり,一方で敵の大砲に照準をつけさせないために天守などの高い建物は設置されないことになっていた(結局後に函館奉行所が置かれてしまったため中途半端に
なってしまったのだが).
工事は幕府の財政難もあって遅々として進まず,結局規模を縮小して慶応二年(1866年)にやっと完成した.当時は亀田役所土塁と呼ばれていたそうだが,現在は五稜郭の名で知られるようになっている.
こうして国防のためにようやく完成した五稜郭であるが,皮肉なことにこの城が実戦で使われたのは,外国からの侵略ではなく戊辰戦争という内戦のためであった.大政奉還に伴う幕府崩壊後箱館奉行所は平和裏に新政府の箱館府に業務を引き継いだが,明治元年10月に榎本武揚率いる旧幕府艦隊と大鳥圭介・土方歳三らの旧幕府陸軍部隊が北海道に上陸,まともな武力を持たなかった新政府の箱館府が退却したため,10月26日に旧幕府軍はほぼ無傷で五稜郭の占領に成功した.
以来半年にわたってここを拠点としていた旧幕府軍であるが,翌明治2年春から新政府軍の反撃が始まり5月11日に土方歳三が戦死,5月18日には榎本武揚も降伏し,ついに五稜郭は開城となった.
明治維新後は陸軍の管轄となり駐屯地などとして使われていたが,大正3年(1914年)からは公園として市民に開放され現在に至っている(2010年には箱館奉行所が再建された).
五稜郭は銃や大砲を主力兵器とする近代の戦争を意識して作られた城郭であり,壮麗な天守や櫓などはなく,土塁と堀を中心にした平面的な城郭となっている.このため地上からではその全貌が想像しにくく,実際に現地に行っても城という実感はわかな |
五稜郭タワーからの展望 |
五稜郭の碑 |
濠が広がります |
再建された箱館奉行所 |
兵糧庫 |
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