江戸時代,今の大分県は8つの藩と九州内他藩の飛び地に細分されていた.当然各藩の規模は小さく,最大の中津藩でも10万石で,その他の藩は2〜5万石規模だった.ただ逆に言えば近世城郭の数としては他都道府県に比べると多いということであり,100名城・続100名城あわせて6つ選出されている大分県内の城はすべて近世城郭である(一部中世に築かれ江戸時代に残ったものもある).今回のテーマ佐伯城もこうした大分県内の小藩の城である.
大分県南東部の海に面した佐伯の地は鎌倉時代から豊後国の守護大内氏の家臣だった佐伯氏が支配していた.その拠点として戦国時代に築かれたのが戸が栂牟礼城である.今の佐伯市街地からかなり西に離れた栂牟礼山(標高244メートル)築かれた山城だった.豊臣政権期の文禄二年(1593年)の文禄の役で主家である大友義統が失態をしたことから改易され,これに伴い佐伯氏も土地を失った.
その後佐伯の地は豊臣政権の蔵入地になっていたが,関ヶ原の戦いの後,慶長六年(1601年)毛利高政が日田から転封となってこの地に入った.当初は佐伯氏が拠点とした栂牟礼城を利用しようとしたが,完全に戦向けの城郭でしかも山深い場所にあることから,将来の発展性がないと判断し新たに築いたのが佐伯城である.場所はより海岸に近い八幡山(標高144メートル),山頂に本丸や二の丸といった城郭のメイン部分が置かれたのは関ヶ原の戦い後とはいえ,まだ政治的には不安定要素が多々あった時代だからだろう.築城に当たり縄張りを担当したのは安土城建造にかかわった市田祐定,石垣は姫路城を担当した羽山勘左衛門である.一方で麓には城下町の建設も進められた.
佐伯城は山頂に本丸が,その南西に二の丸,その西側に西の丸と続き,本丸の北側には北の丸が置かれた構造の連郭式城郭である.本丸の東側にはさらに一段低い外曲輪も配置されていた.麓からみると本丸を中心に翼を広げたようにも見えることから鶴ヶ城,鶴屋城とも呼ばれている.創建時には三重の天守のほか二重櫓が5基あったとされる.しかし元和三年(1617年)火災によって天守は焼失し以後再建されなかった.初代高政と2代藩主高成の時代はは山上に政庁を置いていたが,大坂の陣終結後世情が安定すると山上に政庁があるのは不便であり,寛永十四年(1637年)3代藩主高尚は麓に新たに三の丸を築き,そこに藩庁機能を移転した.これ以後山上の城郭は使われなくなり荒廃が進んだという.
その後毛利家の統治のまま幕末に至る.明治後廃城となり多くの建物が解体されたものの,三の丸櫓門や御殿の一部などが現存しているほか,,山上の石垣は良く残っている. |
三の丸櫓門(現存) |
三の丸の石垣 |
登城道 |
本丸の石垣 |
本丸外曲輪から市街地の眺望 |
北の丸方面を見る |
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