戦国時代、今の大分県に相当する豊後国を支配していたのは大友氏であり、その拠点は今の大分市中心部にある府内城だった。大友氏は16世紀後半の大友義鎮(宗麟)の時代に最盛期を迎え、一時は九州東部6か国を支配していた。しかしその支配は長くは続かず、中国地方を統一し北九州に進出してくる毛利氏、南から勢力を拡大させてくる島津氏の圧迫を受けるようになった。こうした背景の中で行われたのが府内城から今回のテーマ臼杵城への移転である。
臼杵城は府内城から佐賀関半島の反対側に位置する。当時ここには丹生島と呼ばれる東西に細長い島があった。南北東3方面は海、西方面のみ干潮時に干潟が現れ陸地との交通が可能になるという天然の要害だった。義鎮はこの丹生島を丸ごと城郭に作り変えたのである(もっとも彼以前の時代から丹生島には砦的なものはあったとされている)。このため臼杵城は丹生島城あるいは遠方から見た姿が亀のようであることから亀城とも呼ばれた。
義鎮が拠点を府内城から臼杵城に移したのは従来永禄5〜6年(1562〜63年)ごろとされていたが、その後新たな資料の精査から弘治年間(1555〜58年)にはすでにここに移っていたのではないかといわれている。移転の根拠としては北方からの毛利氏の脅威を避けるため、自らキリスト教を保護した義鎮が府内城に残る神社仏閣などの旧勢力の存在を嫌ったため等諸説がある。以後16世紀後半の大友義鎮、義統親子の時代を通して大友氏の拠点となった。義鎮時代の末期、天正14年(1586年)には島津軍の侵攻を受け、当時ポルトガルから供与を受けた大砲(フランキ砲)を動員して撃退したという事件も起こっている。
義鎮没後、子の義統が当主となったが文禄の役での失態(明の大軍に包囲された小西行長から救援を依頼されたものの、行長が戦死したという誤報もあり救援せず撤退した事案)により改易された。
その後は福原直高を経て慶長2年(1597年)に太田一吉が、さらに関ヶ原の戦い後に稲葉貞通が5万石で入り、以後江戸時代を通じて稲葉氏による臼杵藩の拠点として明治維新に至る。 |
臼杵城 |
右が畳門、左が二ノ丸櫓門(再建) |
二ノ丸正面の石垣 |
畳門 |
卯寅口門脇櫓 |
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