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 続日本100名城スタンプラリー


 192.角牟礼城


 九州北部筑後川の上流である玖珠川沿岸に開けた玖珠盆地は、豊後国と豊前国を結ぶ街道の要衝に位置する場所である.この地一帯は平安時代から玖珠郡衆と呼ばれる土豪により支配されていたが,鎌倉時代の13世紀後半にこの地の拠点として,盆地の北側にある標高576メートルの角埋山の山頂に築かれたのが角牟礼城である.築城者は玖珠郡衆の一人である森朝通と言われている.
 戦国時代になると玖珠盆地は豊後の大友氏の勢力圏となり,玖珠郡衆もその支配下に入った.交通の要衝である当地は豊前の大内氏と接する場所であることから,角牟礼城も大友氏の指導の下改修が繰り返された.安土桃山時代の天正十四年(1586年)の島津義弘による豊後侵入の際には森氏ら玖珠郡衆が角牟礼城に籠城し徹底抗戦し,屈強な島津勢を最終的に撃退,この城の堅固さを実戦で証明した.
 豊臣秀吉による九州征伐後も引き続き大友氏の領地だったが,文禄二年(1593年)に大友義統が文禄の役での不手際を咎められて改易されると,秀吉配下の毛利高政がこの地に入る.高政も引き続き角牟礼城の改修を行い,この時期に今に残る石垣が整備された.
 関ヶ原の戦いの後、高政が佐伯に転封となり、代わって来島長親が入ったが,彼は1万4千石と小身だったため城を持つことができず,麓に陣屋を置き角牟礼城は廃城となった.
 前述のように角牟礼城は角埋山を利用した典型的な山城であり,山頂部に本丸が,その南斜面に二の丸や三の丸などの郭が配置されている.これらの郭には毛利高政時代に築かれた穴太積みと呼ばれる野面積みの石垣があり,これは安土桃山時代に特徴的な構造であるが,江戸時代以降放置されていたことから,結果的に当時の遺構がそのまま残されることになった.

三の丸の石垣

二の丸の石垣

穴太積みの石垣

大手門跡
 

二の丸西曲輪

本丸跡

本丸からの眺望
 
  (登城日 2021年9月13日)    

本丸周辺図
 
角牟礼城へのアクセス: JR豊後森駅から玖珠町コミュニティバス「まちなか循環バス」(時刻表)にてわらべの館前下車,そこから徒歩10分程度で登山口,そこから本丸まで30分ほどです.車の場合は林道を通って直接三の丸まで行けます.  

スタンプの設置場所 豊後森藩資料館またはくすまちメルサンホールにあります

登城のハード指数(★★☆ ややハードです) 車で三の丸まで行く場合はハードではありませんが、登山口から歩く場合はそれなりにハードです.

 


 

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