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 続日本100名城スタンプラリー


 189.鞠智城


 大化の改新が行われた7世紀の日本の外交環境は,大陸に成立した強力な国家である唐へは使節(遣唐使)を派遣して友好関係を築く一方で,朝鮮半島では古くから百済と友好関係にあったため,それと敵対していた新羅とはぎくしゃくした関係になっていた.7世紀半ばから唐による高句麗侵攻が始まると,作戦を有利に進めるため唐は新羅を支援するようになった.同時期百済は新羅としばしば戦っていたが唐が支援を開始したことで情勢は一気に新羅有利となり660年に百済は滅亡した.

復元された八角形鼓楼
 
 百済滅亡後遺臣たちが日本に救援を求めると,当時政権を握っていた中大兄皇子は援軍を派遣する.渡海した遠征軍は百済遺軍と合流したものの,663年に白村江の戦いで日本側は唐・新羅連合軍に大敗を喫し撤退を余儀なくされた.その後668年に高句麗も唐に滅ぼされたことから,日本国内では唐の侵攻に備えなければならなくなった.その際主戦場と想定された九州北部にいくつかの城が築かれたが,今回のテーマである鞠智城もその系統の城郭である.
 記録としては平安初期に編纂された「続日本記」に天武天皇二年(698年)の記録”大宰府をして大野,基肄,鞠智の三城を繕治せしむ”と記されているのが最初の記載である.この時に修繕されたという記事から築城はより古いと思われる.
 城があったのは今の熊本県北部,山鹿市と菊池市の市境の標高約100メートル丘陵地帯であり,その規模は周囲3.5キロメートル,総面積55ヘクタールになる.当時の日本の九州統治の拠点だった大宰府を防衛する施設の一つであるが,距離的にはかなり南にあり大野城や基肄城への兵站基地だったと考えられている.1960年代から本格的な発掘調査が行われ,72棟もの建物跡や貯水池跡,土塁跡などが見つかった.とりわけ興味深いのが八角形の建物跡(八角形鼓楼)で,これは当時の朝鮮半島に見られた形式のもので,白村江戦後この地に百済からの渡来人が来ていたことを示すと思われる.現在はその八角形鼓楼のほか米倉,板倉(武器庫),兵舎が復元されている.

米倉(復元)

兵舎(復元)

板倉(復元)
 
 8世紀に入り大陸からの侵攻の可能性が低くなると,軍事施設としての鞠智城の役割は失われ,当地域の物資集積所となっていった(古来菊池川流域はの水運.9世紀の文徳実録には当地の不動庫(米倉)11棟が火事で焼失したという記事がある.その後10世紀にはこの城は記録に記されなくなっており,この時期に廃城になったと思われる.  

宮野礎石群

堀切門跡

門の礎石
 

土塁

古の城壁

温故創生之碑
 
  (登城日 2018年11月4日)    
 
鞠智城へのアクセス: JR熊本駅から熊本電鉄バス菊池温泉行き(時刻表)75分終点下車,徒歩10分です(本数はそれなりにあります).  

スタンプの設置場所 城郭入口にある歴史公園鞠智城・温故創生館にあります

登城のハード指数(★☆☆ ハードではありません) 古代山城であり,かなり広い城郭ですが高低差はさほどなく,それほど苦労せずに散策できます。

 


 

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