長崎県南東部,有明海に突き出す形となっているのが島原半島である.室町時代にこの地方を支配していたのが有馬氏で,その本拠地が有馬川河口の小高い丘に立つ日野江城だった.
戦国時代前期の明応五年(1496年)に有馬貴純によって日野江城の支城としてその南側に築かれたのが今回のテーマ原城である.有明海に張り出した丘陵地に築城された平山城で,周囲3km,総面積41万uの規模を持つ.三方を有明海に面した要害の地である.
16世紀末に領主となった有馬晴信は天正年間の龍造寺隆信の圧迫や豊臣秀吉による九州征伐,さらには慶長五年(1600年)の関ヶ原の戦いといった難しい局面を生き延び,江戸幕府成立後は日野江藩が立藩する.晴信は慶長十七年(1612年)の岡本大八事件で切腹となり所領も没収となったが,その子直純が父とは疎遠であり,また徳川家康の養女を妻としているなど幕府と親密だったことから有馬家の存続は許され,日野江の所領もすぐに復活した.だがその2年後の慶長十九年に直純は日向延岡に転封となり,その後釜に松倉重政が同じく4万石で入った.重政が新しい本拠地として島原城を築いたことと,慶長二十年(1615年)に発布された一国一城令により日野江城とともに原城も廃城となる(以後日野江藩から島原藩となる).
島原城は4万石の大名の城郭としては明らかに過大であり,松倉氏の島原藩は初期から財政難に陥った.結果領民に重税をかけるなど苛政に走り,また有馬時代から当地に多くいたキリスト教徒に対する激しい弾圧もあり領民の不満が急速に高まった.その結果起こったのが寛永十四年(1637年)の島原の乱である.一揆軍は当初島原城を攻撃したが,過大な城郭が幸いしたのか落城には至らなかった.幕府による鎮圧軍も迫ってきたこともあり一揆軍3万7千人が籠城したのが原城である.有馬氏時代の支城とはいえ,3方向を海に囲まれた要害の城であり,また場内に水源もあったことから幕府軍も攻めあぐね(当初鎮圧軍の上使として派遣された板倉重昌が討ち死にしている),結局兵糧攻めの上鎮圧に成功したのは約3か月後の翌寛永十五年の春のことである.この乱が幕府に与えた衝撃は大きく,一揆軍は皆殺しにされたほか,乱の原因を作った松倉勝家(松倉重政の子)はその責任を問われ斬首となった(大名が切腹ではなく斬首された例は江戸時代を通じてこの1例だけであり,いかに幕府が危機感を抱いたかがわかる).原城は再び反乱の拠点とならないよう徹底的に破壊された. |
三の丸の大手門跡 |
本丸の遠景 |
蓮池跡(空堀に続く) |
本丸と二の丸の間の空堀跡 |
本丸の石垣の一部 |
埋門跡 |
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