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 続日本100名城スタンプラリー


 183.久留米城


 福岡県南部と佐賀県南部にまたがる筑紫平野は面積1,200平方キロに達する九州最大の平野である.福岡県側では野菜が,佐賀県側では米作が盛んにおこなわれる一大農業地帯であり,その中心地ともいえるのが,今回のテーマ久留米城である.
 久留米城の歴史は室町時代の永正年間(16世紀初頭)にさかのぼる.この地の豪族がここに砦を築いたのが始まりとされている.当初は篠原城と呼ばれていたらしい.この頃は豊後の大友宗麟と肥前の龍造寺隆信が激しく争っていた時代であり,その最前線だった篠原城は度々城主が変わっていたという.
 天正十五年(1587年)に豊臣秀吉が九州を平定すると,毛利元就の子で小早川隆景の養子となっていた毛利秀包に与えられた.秀包によって石垣や堀が整備され,久留米城は近世城郭に生まれ変わる.
 慶長五年(1600年)の関ケ原の戦いでは秀包は西軍に与したため,城は黒田如水に攻められ開城の憂き目にあっている.関ケ原本戦後秀包は改易となり,その後釜として田中吉政が32万石で入封した.ただ吉政は柳河城を本拠としたため,久留米城は一時廃城となる.しかし後の元和六年(1620年)田中氏は吉政の子,忠政が嗣子無く没したため改易となり,旧田中領は南北に2分され,北部は有馬豊氏に与えられ久留米藩が立藩,久留米城は城下町とともに再整備された.以後有馬氏の下で幕末に至る.明治維新後は廃城となり,城の建物は全て失われている.

久留米城本丸石垣

冠木御門跡

本丸御殿跡
 
 そんな久留米城の縄張りであるが,北西部を流れる筑後川を天然の堀とし,河岸の丘陵地に本丸が置かれ,そこから南側へ直線的に二の丸,三の丸,外郭が並ぶ連郭式平城である.各郭の間には堀が巡らせてあった.本丸には天守は置かれなかったが,御殿や7つの櫓が並んでいた.二の丸は藩主の館,三の丸には家老屋敷や蔵屋敷があったという.現在では二の丸,三の丸はブリヂストンの敷地,外郭は市街地になっており往年の面影はないが,本丸は当時の石垣がよく保存されており当時を偲ぶことができる.


 (登城日 2018年9月10日) 
 

巽櫓跡

乾櫓跡

乾櫓から見える筑後川
 

艮櫓跡

月見櫓直下の高石垣

月見櫓跡
 
 
   
 
久留米城へのアクセス: JR鹿児島本線久留米駅から18系統バスで6分,大学病院下車徒歩2分(あるいはJR久留米駅から徒歩徒歩15分)です.西鉄久留米駅からも行けますが少し遠くなります.  

スタンプの設置場所 本丸の篠山神社社務所にあります
登城のハード指数(★☆☆ ハードではありません) 市街地の普通の公園なのででだれでも気軽に散策できます.

 


 

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