本州と九州の境目となる関門海峡,本州側の赤間関から船で渡り,最初の宿場である大里宿(現門司)から海峡沿いに南西4.5キロに進んだ先にあるのが小倉の街である.街道はここから周防灘に沿う中津街道と長崎に向かう長崎街道に分岐する交通の要衝だ.戦略上重要な場所であり,古来から砦などが築かれていた.
室町時代になると周防の大内氏の勢力が増しこの地も大内氏のものとなった.しかし15世紀半ばになり室町幕府の勢力が弱体化すると,大内氏は京都の政局にかかわらざるをえなくなる.国を留守にすることが多くなった大内氏の統制が弱まった結果,太宰少弐氏,菊地氏,大友氏といった北九州の諸勢力が相次いで侵入し,この地の支配者はめまぐるしく変わった.16世紀半ばになると毛利氏が勃興し大内氏は滅亡,1569年(永禄十二年)にその毛利氏によって今の小倉城の場所に城が築かれた.
毛利氏時代には高橋鑑種ついで毛利勝信が城主となっていたが,勝信は関ヶ原の戦いで西軍に与したために改易となり,代わって細川忠興が39万9千石で入封,彼の時代に今に至る小倉城および城下町の建設が行われた.1632年(寛永九年)に肥後の加藤忠広(加藤清正の子)が改易になったため,その後釜として細川氏が肥後国に転封となる.その後譜代大名の小笠原忠真が15万石で入った.忠真は徳川家康の外曾孫であり,この人事は九州の外様大名の監視という役目があったといわれる.この時から本格的な小倉藩が始まり,小笠原氏を領主としたまま幕末に至る.1866年(慶応二年)の第二次長州征討の際この地は戦場となり,長州藩の攻勢によって落城の憂き目にあってしまった.明治維新後城跡には歩兵第12旅団や第12師団の司令部が置かれるなど,軍都小倉の中心となっていった. |
小倉城の復興天守(二の丸からの姿) |
天守台の石垣は野面積です |
大手門跡 |
西ノ口門跡 |
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