戦国時代から安土桃山時代にかけて四国で大きな勢力を誇っていたのが長宗我部氏であり,その拠点だったのが今回のテーマ岡豊城である.岡豊と書いて「おこう」と読ませる難読地名でもある.
そんな岡豊城は今の高知県南国市に広がる香長平野の北西部,国分川の北に位置する岡豊山を中心に築かれた山城である.山頂部に本丸に当たる詰が置かれ,その東の一段下がったところに詰下段,二の段が,詰の西側に尾根筋に沿って三の段,四の段が配置される連郭式の城郭となっている.城の歴史は古く,その始まりは鎌倉時代から南北朝時代と言われ,以来長宗我部氏の居城となっている.途中16世紀初頭の長宗我部兼序の時代に,いわゆる土佐七雄と称される有力国人の争いの中で一度は落城の憂き目を見る.しかし兼序の子国親によって再興され,16世紀後半の元親の時代に長宗我部氏は土佐から一時は四国全域を支配するまでに成長した(その後豊臣秀吉の四国攻めにより領地は土佐一国とされた).その後天正十九年(1591年)に元親が居城を浦戸城に移したため廃城となった.
岡豊城は近世以降再利用されることがなく放置されていたため,中世城郭の形を現代に伝える貴重な遺構となっている.山頂部に位置する詰はいわゆる本丸である.天守があったという記録はないが,礎石があり何らかの建物があったらしい. |
長宗我部元親の像 |
詰の礎石 |
詰からの展望 |
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詰の東側,一段下がったところが詰下段と呼ばれる曲輪で,ここは詰への入口であると同時に防衛施設だったと思われる(ここにも礎石がある).詰下段の東側には深さ2メートルの堀切があり,そこを挟んで二の段と呼ばれる比較的広い(長さ45メートル,最大幅20メートル)曲輪となっている.
一方で詰の西側には三の段,四の段と細長い曲輪が並んでおり,その段差には石積みもあって当時の様子が偲ばれる.四の段の出口には虎口と呼ばれる通路を曲げた構造も見られる.また四の段のさらに西側には堀切を挟んで伝厩跡曲輪と呼ばれる一種の出城もあり興味深い.
(登城日 2022年2月12日) |
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三の段(右側は詰) |
三の段に残る石積み |
円形の曲輪 |
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