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 続日本100名城スタンプラリー


 175.勝瑞城


 戦国時代末期,畿内を勢力に収めて天下に号令をかけた武将が織田信長である.「天下布武」という標語とともに多くの映画やドラマの題材になるなどその知名度は高い.
 しかし畿内に覇を唱えて中央政治を握った戦国大名は織田信長が最初というわけではなく,それ以前にも同じような行動を取った大名もいる.それが三好長慶であり,当時三好氏の四国における拠点だったのが今回のテーマ勝瑞城である.
 勝瑞城の歴史は鎌倉時代前期,承久の乱(1221年)後に阿波国の守護小笠原長清により造られたのが始まりとされているが真偽は不明である.歴史上に登場するのは南北朝時代,管領細川頼之が当地で起こった反乱を制圧した後のことになる(この時勝瑞の名が付けられたらしい).1363年頼之が勝瑞城に入り,以後ここが阿波守護細川氏の拠点となった.管領細川氏のお膝元となったことで勝瑞後は城下町が形成されるなど当時の地方都市としては極めて繁栄した所となった.その後戦国時代になり,細川家の家臣筋の三好氏の勢力が勃興すると勝瑞城も三好氏の影響下に入る.特に三好長慶の代には主家を凌駕する実力を持ち,将軍足利義晴,義輝を追放して中央に覇を唱えるようになった(この頃を三好政権あるいは三好幕府と呼ぶものもいる).しかし長慶の死後,織田信長が足利義昭と組んで畿内進出を図るようになると三好氏の勢力は衰える.やがて家中に内乱が起こると,土佐の長宗我部元親の侵攻を招き,天正十年(1582年)に落城,破却された.
 勝瑞城は中世城郭だが、平城の構造をしている.現在遺構として遺されているのは本丸に当たる勝瑞城跡(現在は見性寺の境内)と居館があった勝瑞城館跡だが

勝瑞城本丸の堀

勝瑞城

本丸の土塁

勝瑞義家の碑
,実際の勝瑞城はこの両者を含む広範囲な城郭だったと考えられている.本丸には堀や土塁跡も遺されている.一方の居館部分については現在も発掘作業が続いており,各種出土品や建物の礎石などが見つかっている.

 (登城日 2022年2月11日) 

こちらは勝瑞城館跡

枯山水庭園跡

濠の跡
 
 
勝瑞城へのアクセス: JR高徳線勝瑞駅から徒歩10分です.  

スタンプの設置場所 平日は勝瑞城発掘現場事務所にあります(土日祝は近くの武田石油、ただし武田石油がお休みの第2,第4日曜日は隣のシューズショップタケダ藍住店)。

登城のハード指数(★☆☆ ハードではありません) 中世城郭ですが平地にあり,誰でも気軽に散策できます.

 


 

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