戦国時代末期,織田信長の命を受けて丹波攻略を担当したのが明智光秀である.その期間は天正三年(1575年)から天正七年(1579年)までの足かけ5年に及ぶ.その長い戦いのクライマックスともいえるのが今回のテーマ黒井城を巡る戦いであり,光秀の丹波攻めは黒井城に始まり黒井城に終わるとも言われる.
そんな黒井城は春日盆地の中央の城山(猪ノ口山 標高365メートル)の山上に築かれた山城である.その歴史は南北朝時代に遡り,建武二年(1335年)に建武の乱で戦功をあげた赤松貞範が,足利尊氏から春日荘を与えられたのを期にここに築城したことに始まるという.赤松氏の治世は5代120年続き,その後荻野氏が入ったと考えられている.しかし天文二十三年(1554年)に城主荻野秋清が赤井直正に暗殺され,黒井城は直正に乗っ取られる形となった.その後直正は一時織田信長に従い所領を安堵されたものの,信長側の武将である山名祐豊が丹波に侵入するとこれを迎撃し反旗を翻した.
そして天正三年から明智光秀の丹波攻めが始まり黒井城はその最前線となる.同年暮れから2か月に渡り明智軍の包囲を受けるも,波多野秀治が背後から攻撃したことで明智軍は敗走した(第一次黒井城の戦い).その後も丹波をめぐる攻防戦が続いたが,天正六年(1578年)3月に直正が病死,その翌天正七年再び明智軍が来襲,今度は事前準備をしっかり行ったこともあり同年末に落城に至った.
丹波平定後黒井城には光秀配下の斎藤利三が治めたが,本能寺の変とそれに続く山崎の戦いで光秀が没落した後は,豊臣秀吉配下の堀尾吉晴が入ったものの翌年には若狭の高浜城に転封となり,黒井城はそのまま廃城となった. |
下界から見た黒井城 |
登り口 |
登山道 |
途中にある復元された赤門 |
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