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続日本100名城スタンプラリー
158.福知山城
古代から中世にかけて京の都から西に延びる街道には2つの筋があった.一つが山陽道で播磨,備前,備中と瀬戸内海付近に沿うルート,そしてもう一つが京都から丹波,丹後,但馬,因幡と日本海に出て西に向かう山陰道である.このうち山陰道で都に隣接するのが丹波国である.ここは歴史的にも都に隣接した地域だけに中央政界の変化の影響を受けやすく,その支配権をめぐってしばしば戦いが起こっている.特に戦国時代末期に都を抑えた織田信長は隣接する丹波の土着勢力に手を焼くことになった.信長の命により丹波攻略を任されたのが明智光秀であり,天正三年(1575年)から約5年の歳月をかけてようやく平定を成し遂げた.この功績により丹波は光秀に与えられ,その拠点となったのが今回のテーマ福知山城である.
福知山城は福知山盆地の中央,由良川と士師川の合流地点にある高台に築かれた平山城である.その前身は室町時代に当地の国人塩見頼勝が築いた掻上城だが(後に横山城と改称),今に続く城郭となったのは明智光秀の時代からである(福知山と福知山と改称されたのもこの時,”明智”の智の字を地名に組み込んだともいわれる).由良川の支流法川を天然の堀とし,その西側台地に本丸が,そのさらに西側に二ノ丸,伯耆丸と連なる連郭式の城となっている.周辺に城下町が整備されたのも光秀の時代からである.ただ天正十年(1582年)の本能寺の変とその後の山崎の戦いによる失脚のため,光秀の時代はわずか数年だった.
福知山城天守
本丸の石垣
本丸を二ノ丸から見る
前述のように京都に近い重要な場所ということで,豊臣秀吉の時代とそれに続く江戸時代初期は城主が次々に交代し統治が安定しなかったが,寛文九年(1669年)に朽木植昌が3万2千石で入り,以後明治維新まで朽木家がこの地を支配した.明治維新後は廃城となり多くの建物も破却されたほか,二ノ丸の台地は削られてしまった.現在遺構として整備されているのは本丸部分のみで,現存する建物としては元々二ノ丸にあった銅門番所が本丸に移築されて残っている.明治期に破却された大小天守は昭和61年に外観復元された.石垣は光秀の時代のものから江戸時代のものまで様々だが,古い時代のものは基本的に野面積みであり,さらに転用石(元は石仏や五輪塔などだった石)が多数使用されているのも特徴である.
(登城日 2021年12月4日)
銅門番所
豊磐の井
本丸の朝暉神社
転用石@
転用石A
天守からの眺望
福知山城へのアクセス: JR・京都丹後鉄道福知山駅から徒歩15分.福知山駅からバスもあります(約4分、本数はそれなりにあります
時刻表行き
時刻表帰り
).
スタンプの設置場所 福知山城天守閣にあります。
登城のハード指数(★☆☆ ハードではありません) 町中にある城跡ですので良く整備されており、誰でも登城できます.
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