日本全国に数多ある神社の中でも,別格の存在とされている伊勢神宮.その伊勢神宮を守る位置にあるのが今回のテーマ田丸城である.
この城郭の歴史は南北朝時代の延元元年(1336年)に南朝方の武将である北畠親房が砦を築いたことに始まる.伊勢神宮と南朝のある吉野を結ぶ重要拠点だったため南北両軍の争奪戦となり,康永元年(1342年)には北朝方の足利尊氏の軍勢によって占領された.
南北合一後は伊勢国司となっていた北畠氏の支配地に再び組み入れられ,15世紀末に伊勢国司5代目北畠政郷が四男顕晴この城を与え,以後は顕晴の系統が城主となった(同時期に顕晴は田丸氏に姓を改め,城も田丸城と呼ばれるようになる).しかし戦国末期に織田信長の伊勢侵攻が本格化,主家である北畠氏が信長に帰順したことを受けて田丸城も信長の支配下に置かれた.
天正三年(1575年)に信長の次男信雄が田丸城に入り,田丸家当主の田丸直昌はその傘下となった.この時から城の改修が始まり,天守台や天守も築かれて今に至る近世城郭となった.ただし天守は天正八年(1580年)に火災で失われている.
本能寺の変の後,豊臣秀吉の時代になると伊勢の地は蒲生氏郷の支配地となり,氏郷の与力として田丸直昌が田丸城主に復帰した.しかし秀吉の奥州仕置によって氏郷の会津転封に伴い直昌も奥羽に移り,その後は稲葉道通が入って江戸時代を迎える(道通は関が原で東軍に属した).田丸藩が立藩され道通,紀通と2代にわたってこの地を治めたが元和二年(1616年)に改易され,津藩の藤堂高虎が治めたものの,元和五年(1619年)に紀州藩の領分に組み入れられ,同藩の家老久野氏が城主となりそのまま明治維新を迎えた.
江戸時代の田丸城は基本的に織田信雄時代の縄張りを維持発展させたものと思われており,西の小高い丘に本丸がその北側に北の丸,南側に二の丸が置かれた連郭式山城の部分とその東方に屋敷などが配置された平城の部分からなる平山城である.明治維新後廃城となりほとんどの建築物が撤去され,城内も破却が進んだ.現在東側の平城部分には玉城町役場や玉城中学校,村上龍平記念館などが建っている.一方で西の山城部分は石垣や曲輪などが良い状態で保存されており往時の姿をしのぶことができる.. |
大手門跡 |
外堀 |
二の門跡 |
内堀 |
富士見門(数少ない遺された建物) |
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