伊勢神宮を擁する伊勢国は畿内にも近く古くから重要な土地とされていた.古代律令制の下では,朝廷から派遣された国司による統治が行われた.鎌倉時代になると朝廷の国司とは別に幕府から守護が派遣されたが,この時代の守護の任務は謀反人や殺人犯人の逮捕など警察権に限られたものだった(しかし室町時代になると,次第に守護の権限が増大し,土地に対する国司の支配権を完全に奪い守護大名化するようになる).
南北朝時代以来伊勢国を支配したのが北畠氏であるが,その始まりは延元元年(1336年)に北畠親房が伊勢国田丸城に拠点を置いたことからとされている.北畠氏は南北朝時代一貫して南朝方に従い,延元三年(1338年)にその親房の子顕信が伊勢国司に任命され,以後土着していくことになる.
南北朝の争乱は次第に北朝方が優勢になり,室町幕府は伊勢国にも守護を派遣したが北畠氏の勢力は強く,14世紀半ばから15世紀半ばまでの100年間は北伊勢は伊勢守護の支配,南伊勢は伊勢国司(北畠氏)の支配と国が2分された状態だった.その後嘉吉元年(1441年)に北畠教具が幕府と和解し以後伊勢国司と守護を兼ねる形で伊勢の支配を確実なものとしていった.この時代,守護が国司から実権を奪っていくパターンが全国的に見られたが,伊勢の北畠氏は国司だった一族が幕府の守護職を併呑した稀有な例である.
そんな北畠氏が伊勢支配の拠点としたのが今回のテーマ多気北畠氏城館だった.多気の地は伊勢・伊賀・大和の国境に近い山間部にある.より海に近い平野部に拠点を置かなかったのは,南北朝の争乱で平野部の城郭が維持できなかったからである.とはいっても多気の地は南朝の拠点である大和と伊勢を結ぶ交通の要衝だった. |
北畠神社 |
北畠顕家の像 |
神社境内 |
当時の建物跡と背後の土塁 |
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