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 続日本100名城スタンプラリー


 152.津城


 三重県の県庁所在地である津市,全国で漢字一文字の自治体はいくつもあるが,かな一文字の市町村はここだけである.「津」という言葉は本来「港」と同義であり,当地は安濃川の船着場があったことから,中世から安濃津と呼ばれ伊勢国の中心地だった.
 そんな津に城郭が築かれたのは戦国時代後半の永禄年間,伊勢国の有力国人長野氏の一族細野藤光によって安濃川と岩田川に挟まれた平地に砦が造られたのが端緒とされている.
 永禄11年に織田信長の伊勢侵攻によりこの地は織田家の支配するところとなり,翌年信長の弟信包が城主として入る.彼によって本格的な築城が行われ石垣や五重の天守が築かれた(この時信包に進言し城の縄張りを張ったのが伊勢侵攻の主力を担った滝川一益だったという説がある).
 本能寺の変を経て豊臣秀吉の時代になると,秀吉の側近であった富田一白が5万石で入城,その子信高と2代にわたってこの地を治めた.慶長五年(1600年)の関ヶ原の戦いで富田信高は東軍方として参戦,前哨戦となった安濃津城の戦いにおいて1,500人と寡兵ながら3万ともいわれる西軍を相手に籠城戦を戦った.最終的には開城となったものの,その奮戦ぶりを称えられ戦後2万石の加増を受け,さらに慶長十三年(1608年)には伊予宇和島10万石へ加増転封となった.

藤堂高虎が築いた石垣

内堀

丑寅櫓(往年のものではない)
 
 富田氏に代わって安濃津城に入ったのが藤堂高虎である.この時彼には伊勢・伊賀2か国22万石が与えられた.当地に入った高虎は城郭を改修するとともに城下町の整備を行った(富田氏時代の城郭は安濃津城の戦いで損傷を受けていた).
 高虎によって築かれた城郭は,中心に本丸を置き,その東西に出丸(西の丸&東の丸)を設置しこれらの周囲を内堀が囲み,その外側に二の丸が,そのさらに外側に外堀が囲むという輪郭式平城となっている(北の安濃川,南の岩田川は大外堀とされた).城内にはいくつかの櫓が建てられたものの,織田信包時代のような天守は造られなかったという.城下町は主として安濃川と岩田川の間に形成され,城の北と西,南に武家屋敷を東側に町屋が配置された.また伊勢参道街道を城下町内に引き入れ,宿場町としての機能も付加され町の発展に寄与した.
 以後江戸時代を通じて藤堂家の支配のもと津藩の城下町として栄えた.明治後廃城となり城内の建物は順次破却され,外堀も埋め立てられてて市街地に変わってしまっている.現在残された遺構は本丸や西の丸の石垣や内堀の一部である.昭和期に丑寅櫓が建てられたが,これは江戸時代の考証に基づくものではない.


 (登城日 2020年10月31日)
 

本丸の埋門跡

藤堂高虎の像

入徳門(藩校の門)
 

天守台

本丸内の庭園

西の丸と二の丸をつなぐ橋
 

津城の縄張りと今
 
津城へのアクセス: 近鉄名古屋線津新町駅から徒歩15分です.JRおよび近鉄津駅からはバスで8分,三重会館バス停下車すぐです(三重交通).  

スタンプの設置場所 城跡に隣接する高山神社社務所にあります

登城のハード指数(★☆☆ ハードではありません) 典型的な近世城郭由来の都市公園であり,誰でも気軽に散策できます。

 


 

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