静岡県の西部を占める遠江,都からほど近い場所にある琵琶湖を擁する近江に対して,都から遠くにある浜名湖を擁する国としてこの名がある.戦国時代この地を支配してたのは駿河に拠点を持つ今川氏だった.しかし永禄三年(1560年)桶狭間の戦いで当主の今川義元が討ち死にすると今川氏は衰退し,代わって三河で自立した徳川家康が遠江に勢力を伸ばすようになった.その家康が元亀元年(1570年)本拠地を三河の岡崎城から移したのが今回のテーマ浜松城である.
家康入城以前ここは曳馬城と呼ばれ,今川氏与力の飯尾氏が城主を務めていた.家康がこの地に入ったのは,今川氏没落後東の駿河を制圧して対立していた武田氏に備えるためである.この際に浜松城と改称,縄張りの拡張を行った.以来天正十四年(1586年)に駿府に移るまでの17年間家康はここを居城とした.この間姉川の戦い,小牧・長久手の戦いの際はこの城から出陣し,三方ヶ原の戦いでは武田信玄に大敗した後,この城に逃げ込み九死に一生を得ている.
家康の駿府移転後は,家臣である菅沼定政が城代として入っていたが,小田原攻めを経て家康が関東に移封された後,豊臣系の大名である堀尾吉晴が12万石で入城する.慶長五年(1600年)の関ヶ原の戦い後の論功行賞で堀尾氏が出雲に加増移封され,慶長八年(1603年)に徳川幕府の成立以降は徳川家譜代の大名が代々城主となった.これは浜松城が東海道筋の重要な城だったからと考えられる.歴代城主には幕府の重要ポストである老中や大坂城代,京都所司代に就任したものも多かったことから別名”出世城”と呼ばれる.江戸時代後期の天保の改革で知られる水野忠邦は元々唐津藩主だったが,幕閣への昇進のため賄賂を使って浜松藩主に国替えされたのは有名な話である.
前述のように浜松城の基礎を作ったのは徳川家康であるが,石垣や天守などは無く,土塁中心の城だった.今に残る石垣を造ったのは堀尾吉晴である.彼の時代に石垣や天守を持つ近世的な城郭に生まれ変わった.石垣は安土桃山時代の城郭によくみられるような野面積みである.天守は江戸時代初期に焼失し以後再建されなかったといわれる.縄張りとしては本丸の西側に一段高くなった天守曲輪があり,本丸の東側に二の丸,南側に清水曲輪が設置された梯郭式と呼ばれる形式になっている. |
浜松城模擬天守 |
復元された天守門 |
天守から見える八幡台 |
野面積みの石垣 |
高石垣が見事 |
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