ビザンチン皇帝の部屋 本文へジャンプ

ホーム

海外旅行記録

国内旅行記録

非日常の世界

日常の世界

幕末・新選組の
小部屋

 ”100”の小部屋

学問の小部屋

ビザンチン帝国
とは

アクセスカウンター
 SINCE 2011年9月25日
       

 続日本100名城スタンプラリー


 147.高天神城


 戦国時代に今の静岡県のエリアを支配していたのは駿河に本拠を持つ今川氏だった.だが、永禄三年(1560年)の桶狭間の戦いで当主の今川義元が討ち死にしたことで急速に勢いを失い,甲斐の武田信玄と三河で自立した徳川家康によって分割される形となった.この両勢力の国境に位置していたのが今回のテーマ高天神城である.
 高天神城は菊川の河口部からやや内陸に入った鶴翁山(標高132メートル)を中心にその尾根筋に築かれた山城である.城の歴史は鎌倉時代に遡るといわれるが,資料的な裏付けがあるのは室町時代後期,今川氏が守護大名から戦国大名に成長する段階とされている.城主は今川氏の家臣である小笠原氏である.今川氏時代はそれほど重要な場所ではなかったが,桶狭間の戦い後に徳川家康の支配下になると,隣接する武田氏に対峙する重要拠点となった(城主の小笠原氏興は徳川家康に内応しそのまま城主となったがまもなく死亡,子の信興が跡を継ぐ)).元亀二年(1571年)武田信玄が高天神城の攻略に乗り出したものの撃退に成功し,難攻不落の城として天下に知られるようになった.翌元亀三年(1572年)の西上作戦において信玄はあえて高天神城には手を付けなかったほどである.
 信玄亡き後勝頼の代になった天正二年(1574年)に武田軍は2万の大軍を率いて高天神城に攻め寄せた(第一次高天神城の戦い).難攻不落と言われた城だったが,実は西側の斜面が緩く勝頼はその弱点を突くことで攻略に成功したのだった(父信玄でも落とせなかった高天神城を攻略したことで勝頼の名は天下に轟いた).城主の小笠原信興は武田方に降伏した.占領後勝頼はこの城の弱点だった西側斜面に横堀を造るなど防御力を高める一方,城代として重臣の岡部元信を入れた..
 しかし天正三年の長篠の戦いで武田軍が大敗,以後徳川軍の攻勢が始まる.徳川軍は諏訪原城を落とす一方で,高天神城への補給路を断つべく周囲に6つの砦(高天神六砦)を築いて対抗した.高天神城の堅さをよく知る家康は力攻めではなく兵糧攻めの策を取ったのである(第二次高天神城の戦い).完全に補給が立たれた高天神城は孤立し城兵の中には餓死するものも出るなど士気も下がっていった.岡部は勝頼に援軍と補給を求めたが,徳川方の包囲は堅く,結局勝頼は援軍を送らなかった.天正九年(1581年)三月に残った城兵が打って出たものの衆寡敵せず落城となった.この高天神城落城は武田勝頼の威信にを大きなダメージを与え,武田家衰退を加速させることになった.

この山全体が高天神城

曲輪から想像する当時の城郭

追手口跡

登城路は整備されている

かな井戸
 
   高天神城は鶴翁山頂に本丸があり,そこから南東に延びる尾根筋に三の丸が,本丸から西に下った場所にある「かな井戸」を中心とした井戸曲輪を挟んで反対側の南北に伸びる尾根筋に二の丸,西の丸が置かれる縄張りとなっていた.城郭の南に追手門が,北側に搦手門が設置されそこから登城することができたが,尾根筋がきわめて急峻であり登山道以外からの侵入は困難を極め,規模が大きくはなかったが防御に適した優れた城郭だった.前述のように西側の斜面が比較的緩いのが唯一の弱点だったが,第一次高天神城の戦い後武田勝頼はこの方面の防備を強化した.
 武田氏滅亡後駿河が徳川家康領になると国境の城としての高天神城の役割は失われたことから廃城となった.その後城郭として再建されることはなく現在に至っている.400年以上の歳月を経てはいるが,当時の曲輪や堀切,横堀などの遺構が残っている.また西の丸には高天神社があるほか,本丸の山腹には第一次の戦いで捕虜になった徳川方の武将大河内政局が幽閉されていたとされる石牢がある.

 (登城日 2022年1月23日)
 

土塁跡

堀切跡

横堀跡
 

西の丸にある高天神社

堂の尾曲輪

本丸跡
 

大河内政局が捕らわれた石牢

三日月井戸

搦手口
 
 
高天神城へのアクセス: JR東海道本線掛川駅から静鉄ジャストライン掛川大東浜岡線大東支所行きまたは浜岡営業所行き(時刻表)で約20分,土方バス停下車。そこから徒歩15分で追手門跡あるいは徒歩20分で搦手門跡に行けます.  

スタンプの設置場所 大東北公民館の入口にあります

登城のハード指数(★★☆ ややハードです) 遊歩道はよく整備されていますが,中世城郭の山城なので追手門・搦手門どちらから登城するにせよ,それなりの坂道を登ることになります.

 


 

 トップページに戻る   続日本100名城トップへ