戦国時代に今の静岡県のエリアを支配していたのは駿河に本拠を持つ今川氏だった.だが、永禄三年(1560年)の桶狭間の戦いで当主の今川義元が討ち死にしたことで急速に勢いを失い,甲斐の武田信玄と三河で自立した徳川家康によって分割される形となった.この両勢力の国境に位置していたのが今回のテーマ高天神城である.
高天神城は菊川の河口部からやや内陸に入った鶴翁山(標高132メートル)を中心にその尾根筋に築かれた山城である.城の歴史は鎌倉時代に遡るといわれるが,資料的な裏付けがあるのは室町時代後期,今川氏が守護大名から戦国大名に成長する段階とされている.城主は今川氏の家臣である小笠原氏である.今川氏時代はそれほど重要な場所ではなかったが,桶狭間の戦い後に徳川家康の支配下になると,隣接する武田氏に対峙する重要拠点となった(城主の小笠原氏興は徳川家康に内応しそのまま城主となったがまもなく死亡,子の信興が跡を継ぐ)).元亀二年(1571年)武田信玄が高天神城の攻略に乗り出したものの撃退に成功し,難攻不落の城として天下に知られるようになった.翌元亀三年(1572年)の西上作戦において信玄はあえて高天神城には手を付けなかったほどである.
信玄亡き後勝頼の代になった天正二年(1574年)に武田軍は2万の大軍を率いて高天神城に攻め寄せた(第一次高天神城の戦い).難攻不落と言われた城だったが,実は西側の斜面が緩く勝頼はその弱点を突くことで攻略に成功したのだった(父信玄でも落とせなかった高天神城を攻略したことで勝頼の名は天下に轟いた).城主の小笠原信興は武田方に降伏した.占領後勝頼はこの城の弱点だった西側斜面に横堀を造るなど防御力を高める一方,城代として重臣の岡部元信を入れた..
しかし天正三年の長篠の戦いで武田軍が大敗,以後徳川軍の攻勢が始まる.徳川軍は諏訪原城を落とす一方で,高天神城への補給路を断つべく周囲に6つの砦(高天神六砦)を築いて対抗した.高天神城の堅さをよく知る家康は力攻めではなく兵糧攻めの策を取ったのである(第二次高天神城の戦い).完全に補給が立たれた高天神城は孤立し城兵の中には餓死するものも出るなど士気も下がっていった.岡部は勝頼に援軍と補給を求めたが,徳川方の包囲は堅く,結局勝頼は援軍を送らなかった.天正九年(1581年)三月に残った城兵が打って出たものの衆寡敵せず落城となった.この高天神城落城は武田勝頼の威信にを大きなダメージを与え,武田家衰退を加速させることになった. |
この山全体が高天神城 |
曲輪から想像する当時の城郭 |
追手口跡 |
登城路は整備されている |
かな井戸 |
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