現在の静岡県の中部から西部は旧国名でいえば駿河国と遠江国になる.戦国時代後半の16世紀半ばこの地に勢力を誇っていたのは今川氏であった.しかし1560年(永禄三年)の桶狭間の戦いで当主の今川義元が討ち死にすると今川氏の勢力は急速に衰え,駿河は武田信玄,遠江は徳川家康の勢力圏となる.
その後両者は国境を接してしばしば衝突を繰り返していく.特に信玄が没して勝頼の代になると武田氏による遠江への侵攻が活発になるが,その攻勢の拠点として築かれたのが今回のテーマ諏訪原城である.
諏訪原城は駿河と遠江の国境となる大井川の西側,菊川との間に細長く伸びる牧之原台地の上に天正元年(1573年)武田勝頼によって築かれた城である.ちょうど東海道の道筋に当たっていたため,東西の交通路を抑える要害の地だった.築城に当たったのは武田家の重臣馬場信房といわれている.
縄張りとしては東端の急斜面に面した場所に本曲輪が,その西側および南側に二の曲輪が設置され,さらに南の東海道に面して大手曲輪が置かれる形となっている.
この城を拠点として武田勝頼は翌天正二年(1574年)には信玄も落とせなかった高天神城を攻め落とすなど勢力拡大を図ったが,その1年後の天正三年(1575年)の長篠の戦いで織田・徳川連合軍が武田軍を破ると,勢いに乗った徳川軍によって諏訪原城は奪われ,以後は徳川方による駿河攻略の拠点となった.この徳川時代に諏訪原城は改築されている.天正十年(1580年)に武田氏が滅亡し,遠江・駿河が家康の勢力圏として統一されると,国境の城としての役割を終え,やがて廃城となった. |
諏訪原城ビジターセンター |
合戦のジオラマ |
外堀 |
二の曲輪中馬出 |
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