14世紀の前半に成立した室町幕府は15世紀に入るとその勢力を失い,特に15世紀半ばの応仁の乱以降は各地に半ば独立した勢力が割拠する戦国時代となる.こうした地方で自立した大名を戦国大名と呼んでいるが,その嚆矢となったのが伊豆の北条早雲で,彼が旗揚げをした城が今回のテーマ興国寺城である.
興国寺城が立地するのは駿河と伊豆の国境に近い(駿河側)今の沼津市の西部根古屋地区である.愛鷹山南麓の傾斜地で東海道よりも内陸部を東西に走る根方街道側に築かれていた.
この城郭が築かれたのは15世紀の後半とされるが,歴史の表舞台に登場したのは長享元年(1487年)で後に北条早雲となる伊勢宗瑞(当時室町幕府の申次衆)が駿河の守護今川家の当主に,自身の姉北川殿の子氏親(宗瑞にとっては甥)を据えた功績によりこの城を与えられたことによる.
明応二年(1493年)に宗瑞はここから伊豆の堀越公方足利茶々丸の攻撃に出たとされ,ここから宗瑞による伊豆攻略が始まった.同地の平定が成った明応七年(1498年)に宗瑞は本拠を伊豆の韮山城に移したため興国寺城は支城となった.
その後戦国時代が本格化すると興国寺城は今川,北条,武田3国の勢力がぶつかる最前線となり3国の政治情勢により支配者が入れ替わった.まず天文六年(1537年)に早雲の子北条氏綱が起こした第1時河東の乱の結果,永禄十一年(1568年)まで約30年間今川氏の支配となった.この時代に様々な普請が行われたとされる.途中永禄三年(1560年)に今川家の当主義元が桶狭間の戦いで敗死すると今川氏の勢力は徐々に衰退,永禄十一年に武田信玄の駿河侵攻を受けて今川の援軍として参戦した北条氏康が興国寺城を占領しそのまま自軍に組み入れてしまった.その後元亀二年(1571年)に北条氏と武田氏との同盟が成立すると今度は武田氏に引き渡され,以後天正十年の同氏滅亡までその領土であった.
武田氏滅亡後は東方へ勢力を伸ばした徳川家康の支配地となるも,天正十八年(1590年)に徳川氏が関東に移封となると,豊臣秀吉の家臣である中村一氏が入った. |
興国寺城跡に立つ幟と富士山 |
三ノ丸(真ん中の道路が旧根方街道) |
本丸跡に立つ穂見神社 |
土塁 |
天守台の石垣 |
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