岐阜県を構成している旧国名は美濃と飛騨である.このうち北半分を占める飛騨はだいたいどこへ行っても飛騨なのだが,南半分を占める美濃は地域によってかなり様子が異なる.一般には西濃,中濃,東濃(さらに行政区分では岐阜地区というのもある)に区分されるが,その中で愛知県の尾張地方と共に濃尾平野を形成している部分が西濃であり,今回のテーマ大垣城が位置するのもその西濃地区である.
この地に城が築かれた時期ははっきりしていない.明応九年(1500年)に竹腰尚綱が築いたのが端緒と言われるが,より確実なのは天文四年(1535年)に美濃の守護土岐氏の重臣宮川安定によるものである.当時は牛屋城と呼ばれていた.
1540年代に入り美濃の斎藤道三と尾張の織田信秀の抗争が激化すると,両者の国境付近に位置していたこの城は戦いの最前線となった.天文十三年(1544年)に信秀の攻撃により一時奪われたが,3年後の天文十六年(1547年)に道三の軍勢により奪還され,家臣の竹腰尚光が入城した.道三の死後永禄二年(1559年)にはいわゆる西美濃三人衆の一人氏家卜全に与えられ,堀や土塁などが改築された.氏家氏はやがて斎藤氏から織田氏に乗り換えたため,織田信長時代はそのまま所領を安堵されこの地を支配していた.
本能寺の変を経て秀吉の時代になると,尾張から近江に至るルート上の要衝となったこの城の重要性は増し,城主は池田恒興や一柳直末,伊藤祐盛ら秀吉恩顧の武将が任じられるようになる.ただ創建当時の大垣城は天正13年(1585年)の大地震で崩壊してしまい,再建されたのは慶長初期の伊藤祐盛の時代である.この時に天守が築かれたとされる.
慶長五年(1600年)の関ヶ原の戦い直前には西軍の拠点となり,石田三成・宇喜多秀家・小西行長らが一時入城していた.関ヶ原本戦の勝利によって勢いづいた東軍が大垣城に攻めかかり,結果約1週間後に開城となった.
江戸時代に入るとこの地には大垣藩が立藩され,譜代大名である石川康通が城主となった.石川氏は3代で豊後日田に転封となり,その後は短期で城主が次々と変わったが,寛永十二年(1635年)に戸田氏鉄が入り以後幕末までその支配が続いた. |
天守は外観復元です |
乾櫓(復元) |
艮櫓(復元) |
水之手門跡 |
鉄門跡 |
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明治維新後は廃城となったが,天守など一部の建物は残され昭和11年(1936年)には国宝に指定される.しかし第二次大戦末期の空襲によって焼失,戦後になり外観復元され現在に至っている.
大垣城は平野部に築かれた平城であり,本丸と二ノ丸が並立しその周囲を三ノ丸が取り囲む,連郭輪郭複合式と呼ばれる縄張りになっている.三ノ丸の外側には外堀が張り巡らされ,さらにその外側に武家屋敷や町人住宅地が取り囲む総構えのような形になっていた.近代以降の再開発によって城跡の大半は住宅地となり,現在は当時の本丸部分のみが城跡として整備されている(二ノ丸部分は大垣城ホールに,内堀と三ノ丸の一部が大垣公園になっている).先述の通り天守や艮櫓は戦前まで現存していたものの,大戦末期の空襲により焼失,戦後に鉄筋コンクリートで外観復元されている.
(登城日 2020年9月27日) |
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戸田氏鉄の騎馬像と天守 |
被災前の天守古写真 |
本丸の石垣 |
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東門ですが,当時は存在しなかったものです |
こちらが東埋門跡
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城跡と関係ない糜城の滝(水がありません) |
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