岐阜県を構成している旧国名は美濃と飛騨である.このうち北半分を占める飛騨はだいたいどこへ行っても飛騨なのだが,南半分を占める美濃は地域によってかなり様子が異なる.岐阜・大垣といった岐阜県を代表する都市がある西濃は2020年の大河「麒麟がくる」にも登場するように斎藤道三や織田信長のイメージが強い.一方中津川や恵那などを擁する東濃は武田氏と織田氏が激突した地域であり雰囲気が異なる.そして両地域に挟まれた地域が中濃で,その最北部に位置するのが今回のテーマ郡上八幡城となる.
郡上八幡の領域は鎌倉時代の承久の乱での功績から東氏の支配するところであった.しかし時代が下り戦国時代に入るとその勢力は弱まり,1559年(永禄二年)一族の遠藤盛数によって滅ぼされることになった.その際東氏の拠点だった赤谷山城を攻撃するために盛数によって築かれた砦が今に至る郡上八幡城の基となった.司馬遼太郎の「功名が辻」が知られる山内一豊の妻千代は盛数の娘とする説があり,場内には一豊と千代の像がある.
城は吉田川と小駄良川の合流地点の北東,標高約350メートルの八幡山に城郭が築かれ,麓に城下町が広がる平山城である.先述した遠藤盛数とその子慶隆によって基礎が作られたが,1582年(天正十年)の本能寺の変とその後の政変の中で,羽柴秀吉と対立していた織田信孝(信長の三男)に与していたことから追放を受けた.その後釜として入った稲葉貞通により城郭の改修がなされ,今に残る天守台や石垣などが整備された.
1600年(慶長五年)の関ヶ原の戦いの際,東軍に属した遠藤慶隆は当初西軍に与した貞通の留守を狙って郡上八幡城を攻撃しこれを降伏させたものの,貞通の反撃にあい退却した.しかし関ヶ原の戦後処理で最終的に郡上八幡城は慶隆に与えられ,郡上藩が成立した. |
郡上八幡城本丸への登り口 |
山内一豊と千代の像 |
こうした道を登っていきます |
遺構の石垣 |
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江戸時代には遠藤氏による支配が5代続いたのち元禄年間に無嗣断絶,その後井上氏,金森氏の時代を経て,1758年(宝暦八年)に青山幸道が入り以後青山氏の統治のうちに幕末を迎えた.戊辰戦争時に郡上藩は新政府側に付くことになったが,江戸在住の藩士を中心に幕府を支持する者も多く,結果一部藩士が脱藩して凌霜隊を結成,北上する大鳥圭介ら幕府軍と合流して会津戦争に参加している.
維新後廃城となり全ての建物が破却されたため,遺構として残るのは石垣と曲輪のみである.1933年(昭和8年)に天守が木造で復元されたが,郡上八幡城には天守台はあるものの天守が建っていたとされる記録がなく,これは模擬天守である(造型は同じ岐阜県内にある大垣城を模している).
(登城日 2020年9月26日) |
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ようやく到着
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昭和8年に立てられた模擬天守(モデルは大垣城) |
木造です
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天守から見る市街地と吉田川 |
凌霜隊の碑 |
市街地にある大手門跡 |
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