過去日本に存在した城郭は数万といわれるが,現在国の史跡として何らかの形で残っているのは数百とされる.古いのは飛鳥時代のもので,新しいのは幕末期のものであり、今回のテーマ龍岡城は幕末期に造られた城郭である.
幕末期に新築された城郭は,外国船の相次ぐ来航に始まる国防意識の高まりを受けたものが多い.北海道の松前城(1855年築城)や函館五稜郭(1866年築城)はまさにその代表であるが,この龍岡城も直接外国の脅威を意識したわけではないものの,動乱の世相を受けて築かれたことには違いはない.
奥殿藩は三河国額田の奥殿に陣屋を構えていた藩だったが信濃国佐久にも領地を持っていて,本拠の三河(4,000石)よりも飛び地の佐久(12,000石)の方が広いという複雑な事情を抱えていた.藩主は徳川家康の五代前の先祖松平親忠の分家筋で,大坂の陣の功績によって松平真次が三河に土地を与えられたことに始まる.この時は6千石の旗本だったが,17世紀半ばに飛び地の加増を受けて大名となり奥殿を立藩した.
前述のように藩財政の基盤は信濃であり,歴代藩主は本拠地を信濃に移すことを考えていたが,城の新築が厳しく制限された時代が続いたことから実現しないまま時代は下る.幕末期の藩主松平乗謨の時代にようやく佐久への本拠移転が認められた.こうして新しい藩庁として築かれたのが龍岡城である.佐久への移転は長年の願いではあるが,風雲急を告げる幕末の政治情勢の中,東海道筋に近い三河が戦乱に巻き込まれる可能性を危惧したとも考えられる.
龍岡城の特徴として特異的なのはその形状であろう.ここは函館五稜郭とともに日本に2つしかない星形稜堡を持つ城郭である.松平乗謨は老中や陸軍奉行,陸軍総裁を歴任するなど軍事に造詣の深い人物だった.函館五稜郭築城に関する情報も持っていたのだろう.そうした西洋式城郭を意識して作ったことは間違いない.ただ,星形稜堡は周囲が開けた平野部だからこそその威力を発揮する城郭である.龍岡城のある佐久は周囲を山に囲まれており,そうした環境では星形稜堡の有効性は発揮できないため,この城郭は実戦を意識したものではなく,乗謨の個人的な研究心からできたものと考えられている. |
展望台からの龍岡城の前景 |
大手門跡に架かる橋 |
「御台所」唯一の現存建物 |
黒門から構内を見る |
龍岡城の解説版 |
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