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 続日本100名城スタンプラリー


 129.龍岡城


 過去日本に存在した城郭は数万といわれるが,現在国の史跡として何らかの形で残っているのは数百とされる.古いのは飛鳥時代のもので,新しいのは幕末期のものであり、今回のテーマ龍岡城は幕末期に造られた城郭である.
 幕末期に新築された城郭は,外国船の相次ぐ来航に始まる国防意識の高まりを受けたものが多い.北海道の松前城(1855年築城)や函館五稜郭(1866年築城)はまさにその代表であるが,この龍岡城も直接外国の脅威を意識したわけではないものの,動乱の世相を受けて築かれたことには違いはない.
 奥殿藩は三河国額田の奥殿に陣屋を構えていた藩だったが信濃国佐久にも領地を持っていて,本拠の三河(4,000石)よりも飛び地の佐久(12,000石)の方が広いという複雑な事情を抱えていた.藩主は徳川家康の五代前の先祖松平親忠の分家筋で,大坂の陣の功績によって松平真次が三河に土地を与えられたことに始まる.この時は6千石の旗本だったが,17世紀半ばに飛び地の加増を受けて大名となり奥殿を立藩した.
 前述のように藩財政の基盤は信濃であり,歴代藩主は本拠地を信濃に移すことを考えていたが,城の新築が厳しく制限された時代が続いたことから実現しないまま時代は下る.幕末期の藩主松平乗謨の時代にようやく佐久への本拠移転が認められた.こうして新しい藩庁として築かれたのが龍岡城である.佐久への移転は長年の願いではあるが,風雲急を告げる幕末の政治情勢の中,東海道筋に近い三河が戦乱に巻き込まれる可能性を危惧したとも考えられる.
 龍岡城の特徴として特異的なのはその形状であろう.ここは函館五稜郭とともに日本に2つしかない星形稜堡を持つ城郭である.松平乗謨は老中や陸軍奉行,陸軍総裁を歴任するなど軍事に造詣の深い人物だった.函館五稜郭築城に関する情報も持っていたのだろう.そうした西洋式城郭を意識して作ったことは間違いない.ただ,星形稜堡は周囲が開けた平野部だからこそその威力を発揮する城郭である.龍岡城のある佐久は周囲を山に囲まれており,そうした環境では星形稜堡の有効性は発揮できないため,この城郭は実戦を意識したものではなく,乗謨の個人的な研究心からできたものと考えられている.

展望台からの龍岡城の前景

大手門跡に架かる橋

「御台所」唯一の現存建物

黒門から構内を見る

龍岡城の解説版
 龍岡城の築城開始は元治元年(1864年)であり,函館五稜郭が竣工したのも同じ年である.慶応三年(1867年)に完成をみたものの,わずか4年後に廃藩置県とともに廃城となった.この城が実戦で使用されたことはもちろんない.
 廃城後主要な建物は解体されたが,御殿内にあった「御台所」が構内の別な場所に移築され現存しているほか,石垣や土塁,堀の一部が残っており当時をしのぶことができる.城の構内は現在佐久市立田口小学校の敷地となっているが,2022年度末をもって同校は閉校となるため,今後龍岡城の復元がなされることが期待されている.
 龍岡城の傍には五稜郭タワーのような人工的な高層建築はないが,城の北東の裏山に展望台があり,そこから全体を眺めることができる(展望台へは登山道を歩いて登る他,車でのアプローチも可能だが道幅が狭く対向車との行き違いが困難な個所が多いため要注意である).

 (登城日 2022年5月29日) 

星形の部分

きれいな堀

堀の無い部分の石垣

畑に面した部分

北西にある枡形の遺構

城郭に隣接する五稜郭公園
 
 
龍岡城へのアクセス: JR小海線龍岡城駅あるいは臼田駅から徒歩20分ほどです.  

スタンプの設置場所 龍岡城隣の五稜郭であいの館にあります。

登城のハード指数(★☆☆ ハードではありません) ほぼ小学校の敷地に一致するため楽に散策できます.

 


 

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