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 続日本100名城スタンプラリー


 126.石垣山城


 15世紀末から約100年に渡って続いた戦国時代の最終局面とされるのが,天正十八年(1590年)に豊臣秀吉による小田原攻めである.すでに全国の多くの大名を従えていた秀吉は天正十五年(1587年)に惣無事令を発して大名同士が勝手に領地を争うことを禁止した.ところが天正十七年(1589年)に北条氏が真田昌幸の所領だった上州の名胡桃城を奪ったことから,これを口実として関東へ出陣したのである.東海北陸以西の主だった大名を中心に総勢20万と言われた.一方の北条方は8万余りで,数的に劣勢だったこともあり小田原城に籠城する作戦を取った.
 現代的な感覚では後詰のない籠城戦では勝ち目がないように思われるが,兵農未分離で兵站も未熟だった戦国時代には通年戦闘を継続することは困難で,農繁期になると攻囲側も退却せざるを得なくなるのが普通で,かつて小田原城は上杉謙信や武田信玄にも包囲されたことがあるが,いずれも攻囲側が退却している.

当時の石垣山城(想像図)

小田原合戦時の配置図(オレンジ線が小田原城総構の領域)
 
 緒戦で東海道沿いの山中城などの要衝を攻略した秀吉軍だったが,さすがに総延長9キロもの総構の小田原城を力攻めするのは難しいため包囲して戦意を喪失させる作戦を取った.この時小田原城包囲の本拠地として築城されたのが今回のテーマ石垣山城である.小田原城の西3キロにある笠懸山の山頂に築かれた山城だ.その規模は東西200メートル,南北500メートルと大きく,総石垣で櫓も備えるなど当時としては極めて先進的な城郭となっていた(当時の関東地方は小田原城でさえ土塁が主体であり,石垣メインの城郭はこの石垣山城が最初だったとされる).
 縄張りは山頂部の本丸を中心に北側に二の丸,井戸曲輪,北曲輪が,南側に西曲輪が,東側には二の丸と南曲輪がそれぞれ段差を付けて配置されていた.本丸の南西端には天守台もあるが,当時そこにどのような建物があったのか(あるいは無かったのか)は分かっていない.また西曲輪のさらに南には出曲輪があり,その間は大堀切で仕切られていた.石垣は野面積みと呼ばれるスタイルで工事に当たったのは安土城でも知られる近江の穴太衆である.
 一説によると築城は秘密裏に行われ,完成後に周囲の木々を伐採したため,小田原城下からはあたかも一夜にして敵の城が出現したように感じられたことから一夜城の別名がある(実際の工期は約80日と言われるが,それでもこの規模の城郭としてはかなり短い).

東登城口

今に残る野面積みの石垣

二の丸の石垣
 
 ともかくこの城郭の出現は北条氏方の戦意を挫くには十分だったと思われ,城の完成後10日あまりで小田原城は開城,当主の北条氏直は降伏した.
 小田原城開城によって石垣山城の存在価値は無くなり戦後廃城となった.その後350年鑑放置され,関東大震災によって石垣の一部が崩壊した.昭和34年(1959年)国の史跡に指定された後一帯は公園として整備され現在に至っている.前述のように関東大震災で被害を受けたものの,多くの石垣が当時のまま残っている(小田原城が都市化され北条氏時代の面影をすっかり失ってしまったのとは対照的である).
 

二の丸跡(今は広場です)

本丸跡

奥が天守台
 

井戸曲輪の石垣(当時の状態が一番よく残る場所です)


櫓台



石垣山城から小田原市街を望む(小田原城天守閣が遠望できます)
 
 (登城日 2022年2月6日)   

石垣山一夜城歴史公園案内図
 
石垣山城へのアクセス: JR東海道本線早川駅、あるいは箱根登山鉄道箱根板橋駅から徒歩40分です.自動車なら直接城跡側の駐車場まで入れます.  

スタンプの設置場所 駐車場のトイレ付近にあります

登城のハード指数(★☆☆ ハードではありません) 城跡内はよく整備されアップダウンもさほどないので気軽に散策できます.

 


 

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