15世紀末から約100年に渡って続いた戦国時代の最終局面とされるのが,天正十八年(1590年)に豊臣秀吉による小田原攻めである.すでに全国の多くの大名を従えていた秀吉は天正十五年(1587年)に惣無事令を発して大名同士が勝手に領地を争うことを禁止した.ところが天正十七年(1589年)に北条氏が真田昌幸の所領だった上州の名胡桃城を奪ったことから,これを口実として関東へ出陣したのである.東海北陸以西の主だった大名を中心に総勢20万と言われた.一方の北条方は8万余りで,数的に劣勢だったこともあり小田原城に籠城する作戦を取った.
現代的な感覚では後詰のない籠城戦では勝ち目がないように思われるが,兵農未分離で兵站も未熟だった戦国時代には通年戦闘を継続することは困難で,農繁期になると攻囲側も退却せざるを得なくなるのが普通で,かつて小田原城は上杉謙信や武田信玄にも包囲されたことがあるが,いずれも攻囲側が退却している. |
当時の石垣山城(想像図) |
小田原合戦時の配置図(オレンジ線が小田原城総構の領域) |
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