山形県日本海側に位置する庄内地方は一般に冷涼とされる東北地方において比較的温暖な土地であり,米どころとして知られている.同地方には酒田市と鶴岡市という比較的同規模(人口10万人強)の街が隣接しており,酒田が港を有する商業の街であるのに対し鶴岡はお城のある城下町である(この辺は福岡における博多と天神の関係に近い).この鶴岡市の中心部にある鶴ヶ岡城が今回のテーマである.
今の鶴ヶ岡城の場所に最初に城が築かれたのは鎌倉時代,当時の出羽国大泉荘の地頭に任命された大泉氏によるとされる.当時は大宝寺城という名称だった.室町時代に入り大泉氏は武藤氏を名乗るようになりこの地方に勢力を伸ばした.しかし戦国時代に入ると,家臣の砂越氏の反乱に悩まされるようになり,ついに天文元年(1533年)に砂越氏維の攻撃により大宝寺城は焼失してしまう.これ以後武藤氏は本拠を西の尾浦城に移したため,大宝寺城は支城となった.
時代が下り天正年間(1573〜1593)になると,西から上杉景勝,東から最上義光がこの地に侵攻,両者の争いの中で武藤氏は滅び,天正16年にこの地は上杉氏のものとなる.しかし慶長5年(1600年)の関ケ原の戦いにおいて,上杉氏は西軍に与したため戦後減封され米沢に去り,代わって最上義光がこの地を修めることになった.義光は庄内地方を修めるための拠点として,大宝寺城・東禅寺城・尾浦城などを整備拡張した.慶長8年(1603年)には酒田湊に大亀が現れたことを瑞兆として,付近の東禅寺城を亀ヶ岡城と改名した際に,大宝寺城も鶴ヶ岡城と改名された.
元和8年(1622年)のお家騒動によって最上家は改易されてしまい,その旧領はいくつかの藩に分割される.このうち庄内地方を与えられたのが譜代大名の酒井忠勝であり,こうして成立したのが庄内藩であった.忠勝は本拠を鶴ヶ岡城に定め,城の拡張とともに城下町の造成を行った.以来庄内藩は幕末まで酒井氏の修めるところとなる.
鶴ヶ岡城は約500メートル四方の方形の本丸の周囲を二の丸が囲み,さらにその周囲に三の丸が囲むという典型的な輪郭式の縄張りとなっている.本格的に整備されたのが元和期以降ということもあって本丸に天守は築かれず,東北地方の奥の城郭と同様に石垣よりも土塁が中心となっていた.
明治維新後廃城となり,本丸と二の丸部分が鶴岡公園として整備され,桜の名所となっているほか,本丸跡には酒井忠勝を祀った荘内神社が置かれている. |
二の丸西門跡 |
本丸御殿跡 |
二の丸外北門跡 |
本丸御隅櫓跡 |
今に残る土塁 |
土塁の様子がよくわかります |
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