鎌倉時代から江戸時代まで,約700年間におよぶ武家政権の時代にほぼ一貫として特定の地域を支配していた豪族として知られるのが北奥羽の南部氏と薩摩の島津氏である.共に当時中央政権の支配が及ぶ最遠の地だったというのが印象深いが,このうち北の南部氏が一時居城としていたのが今回のテーマ九戸城である.
九戸城があるのは岩手県二戸市,実はここから東に15キロほど行った場所に九戸村という自治体があってややこしいのだが,九戸城の九戸は地名ではなく九戸氏という豪族の名前に由来するものである.
九戸城の築城時期は室町時代の名応年間(1492〜1501年),築城主は九戸光政と言われている.馬淵川の東側の河岸段丘上に築かれた梯郭式平山城で,西は馬淵川,北は白鳥川,東は猫淵川を天然の堀とし,南側には空堀が掘られた要害の城だった.
以来4代九戸氏の居城だったが,天正19年(1591年)九戸政実が以前から対立関係にあった主家筋の南部氏(当時の居城は三戸城)に対して兵を挙げたことから豊臣秀吉の奥州再仕置きの標的として攻められ,同年9月4日に落城,政実は処刑された.
戦後は周辺に残存する反対勢力への備えとして蒲生氏郷が残り,彼の手によって城の改修が施されるとともに,南部氏当主信直が三戸城からここに本拠を移した.ただ当時の南部氏は津軽地方3か郡を津軽為信に奪われた代償として、志和,和賀,稗貫,岩手,閉伊の5郡を与えられた.領国が大きく南に移動したことになり九戸城では拠点として北に寄りすぎていることが憂慮され,慶長2年(1597年)に盛岡城が築かれてそちらに本拠地が移された.江戸時代に入ってもしばらく存続していたが,寛永13年(1635年)に廃城となった.
現在遺構として残っているのは主に蒲生氏郷によって改築された部分で特に本丸には奥州最古と言われる石垣があるほか,二ノ丸には大規模な土塁もある.尚,南部氏の拠点となった以降は九戸城から福岡城へと改称されたが一般的にはその後も九戸城と呼ばれることが多い. |
九戸城ガイドハウス |
深田堀 |
二ノ丸 |
二ノ丸と本丸の間の堀 |
本丸虎口 |
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