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 続日本100名城スタンプラリー


 101.志苔館


 近代以前,北海道は蝦夷地と呼ばれアイヌの居住する土地であったが,室町時代以降今の渡島半島に移住する和人が増加した.後の松前藩の歴史書である「新羅之記録」によると,当時の渡島半島沿岸部には和人支配の拠点となる12の館が置かれていた.これが道南十二館で,日本海側の上ノ国町の花沢館や比石館など,渡島半島沿岸部にほぼ等間隔に並んでいる.今回のテーマ志苔館はこの十二館のうち最も東に位置するものである.

志苔館は函館市街地の東にあります
 
 志苔館を築いたのは小林氏という武将で,14世紀末頃のこととされている.長禄元年(1457年)に起こったコシャマインの戦いにおいて館はアイヌの攻撃を受けて陥落,当時の武将小林良景が討ち死にした(このコシャマインの戦いにおいては道南十二館のうち10の館が陥落している).戦い自体はその後和人側が盛り返す形で終結し,小林氏は再び志苔館を拠点とした.しかし,永正九年(1512年)に再びアイヌが放棄して館は戦場となって2度目の陥落,この時の館主小林良定もまた討ち死にしてしまう.この時難を逃れた良定の子孫は花沢館の蠣崎氏を頼ってその支配下となったため,以後志苔館は事実上の廃城となった.
 そんな志苔館があったのは今の函館市街地の東にある函館空港の南側,標高25メートルの海岸段丘の縁である.東西70〜80メートル,南北50〜65メートルのほぼひし形をしており,総面積は4100平方メートルである.周囲は1〜4メートルの土塁に囲まれ,さらにその北側と西側には幅5〜10メートル,深さ最大で3.5メートルの空堀が設けられている.内部には当時の井戸や建物の礎石などの遺構や,中国製の陶磁器や銅銭などの遺物が発見されている.
 志苔館は一応城郭に分類されていて,土塁や堀なども存在するが,二度にわたって落城を経験するなど防御施設としてはパッとしないことから,戦闘用の施設ではなく,あくまでも行政施設だったようだ.
 自分がこの地を訪問したのは2018年10月21日のこと.ウチのKの実家が函館なので,そこを訪問してKの親姉妹やその子供たちと湯の川温泉に宿泊した翌日の訪問だった.志海苔町という地名を頼りに探したものの,最初は場所がわからず迷った末にようやく発見した次第だった.今では土塁などがきれいに整備されていて,公園のような佇まいとなっていた(天気が良く見晴らしも良かった).
 (登城日 2018年10月21日)
 

館を取り囲む土塁

土塁内部の空間

周辺の濠
 

建物の礎石

海の傍です

西側の土塁
 
 
志苔館へのアクセス: JR函館駅から函館バス91系統にて35分,志海苔バス停下車すぐ.自動車の場合専用の駐車場はないので,遺跡北側にある志海苔ふれあい広場に駐車して徒歩数分です.  

スタンプの設置場所 遺跡西側の東屋にあります
登城のハード指数(★☆☆ ハードではありません) 平坦な場所でだれでも気軽に散策できます.

 


 

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