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 徳川慶喜という人

 幕末期にはあまたの魅力的な人物が出現しているが,徳川幕府第15代将軍徳川(一橋)慶喜ほど評価の難しい人物はないであろう.英明なのか愚鈍なのか,一本気なのか優柔不断なのか,見る視線によって評価が180度変わってしまうからである.
 徳川慶喜の大坂城脱出が戊辰戦争のターニングポイントだったというのは有力な説であろう.錦の御旗がひるがえり,緒戦に敗れたとはいえ,この段階ではまだ旧幕府側にも十分勝機があったはずだ.地上部隊の総合的な装備では薩長側が勝っていたといっても,後に新政府軍の主力となる,肥前鍋島藩のアームストロング砲などの近代的火器はまだ登場していないし,幕府にも最新装備の伝習隊がある.

徳川幕府最後の将軍,徳川慶喜公(ケイキさん)
 
さらに海軍力では圧倒的に幕府側が有利だった.当時はまだどっちに付くか模様眺めをしていた藩が多く,要害の大坂城に籠もったうえで,陸海共同で薩長軍を迎え撃ったら,勝機は十分である(特に海軍を使って薩長方の補給路を攻撃すればかなり有利になる).錦の御旗にしても,京の公家衆は結構アバウトだから,幕府が有利とわかれば今度は幕府側に御旗をよこすだろう.  
 しかし,実際には徳川慶喜が夜陰にまぎれて戦線を離脱,幕府軍は江戸に帰ることになった.この段階で万事休すである.以後諸藩は雪崩をうって新政府側に付き,戊辰戦争の行方は決したのである.もっとも,幕府側が気合を入れて大坂で勝利したとしても,歴史が良い方向に向かったかは判らない.フランスの影響力が強まって,案外少年ドラマシリーズの名作「幕末未来人」(昭和52年放送)のようにフランスの植民地になってしまったかもしれない.
 徳川慶喜は天保8年(1847年)に水戸藩9代藩主徳川斉昭の七男として生まれた.

ケイキさんはフランスの影響を強く受けていた.これは第15代将軍時代の写真
 
幼少時から英明の呼び声が高く,古くは嘉永年間に,第12代将軍家慶が自分の後継にしようと考えていたらしい.嫡子の家定が病弱だったからである.ただ嘉永6年(1853年)の黒船来航直後に家慶は急死してしまったため,この時は嫡子の家定が第13代将軍となった.しかし,黒船来航以後の風雲急を告げる情勢下,病弱な家定が将軍では心もとないため,第14代将軍を誰にするかという将軍継嗣問題がさっそく持ち上がる.候補は慶喜と紀州藩主徳川慶福であった.慶喜派(一橋派)は年長・英明を主張すれば,慶福派(南紀派)は血筋を主張する(慶福は第11代将軍家斉の孫にあたる).安政期の幕政はこの将軍継嗣問題と条約問題(諸外国との交易に関する問題)が複雑に絡み合って揺れる.結局この問題は南紀派の井伊直弼が大老に就任して,その豪腕によって反対派を粛清することによって一気にけりがついた.慶喜はまたしても将軍になりそこなったのである.
 しかし激動する時代は慶喜を放ってはおかなかった.文久2年(1862年),彼は将軍後見職として政治の表舞台に登場し,以後獅子奮迅の活躍をするのである.
 徳川慶喜は方針をコロコロ変える人だったらしい(演技かもしれないが).開国派かと思いきや,攘夷派のようにふるまったり,将軍後見職の辞表を叩き付けたりとその行動は多彩で,ために京都守護職の松平容保はじめ,土佐の山内容堂や越前の松平春嶽といった佐幕派の諸侯を困らせている.ただ彼のために言っておくと,これらの行動は政治的駆け引きの側面が強い.彼にしてみれば,江戸の将軍家茂は安政期に第14代将軍を争った相手であり,その幕閣は自分に対して好意的ではない.将軍後見職のポストにしても幕府から請われて就任したわけではなく,薩摩の島津久光のごり押しで,幕閣も嫌々ながら就任を認めたといういきさつがある.幕府は慶喜を常に猜疑の目で見ていたのである.こういう状況にもかかわらず,京都で将軍の代理として攘夷に燃える朝廷との交渉をしなければならないのだから,その苦労は大変なものだ.いってみれば数年前の読売巨人軍で,ナベツネに「お前なんかいらない」と言われた清原が,成績不振で休養中の監督に代わって指揮を取りながら4番バッターも兼務し,完全アウェーの甲子園で阪神タイガースと試合をやっているようなものだ.
 しかしここで彼が取った行動がすごい.まずは朝廷に対し文久3年(1863年)5月10日をもって攘夷を実行しますと宣言する.そして,準備があるといって江戸に帰還する.しかも寄り道しながら‥.結局江戸に着いたのは5月8日,攘夷実行期限の2日前だ.翌5月9日,彼は幕閣に向かって,「5月10日に攘夷を実行するから準備しろ」と命令する.あっけにとられる幕閣たち,そりゃそうだ,外国との戦争の準備が1日でできるはずがない.結局5月10日になっても攘夷は実行されなかった.しかしここまでは彼にとって織り込み済みである.
 
 
 5月10日を過ぎても攘夷が実行されない状況に,ケイキさんは幕閣に怒りをぶつける(ふりをする?).曰く,「お前達がまじめに攘夷を行わないから,自分は朝廷に対して嘘をついてしまった.かくなるうえは,責任をとって将軍後見職を辞任する」,と辞表を叩きつけたのだ.さあ,こんどは朝廷が困った.孝明天皇はガチガチの攘夷派であるが,長州系の尊攘志士が大嫌いで,コチコチの佐幕派でもあるからだ.

慶喜にとっては起死回生の大政奉還だったが…
 
今の状況下で幕府と朝廷の間を取り持てるのはケイキさんしかおらず,結局彼の辞表は受理されなかった.ケイキさんの作戦勝ちである.
 かの有名な大政奉還も,ケイキさん一流の策略になるはずだった.大政奉還のシナリオは坂本龍馬の船中八策を後藤象二郎が山内容堂に進言し,それに徳川慶喜が乗ったものであるが(慶応3年10月14日),その背景には武力倒幕を目指す薩摩の西郷隆盛や大久保利通,公家の岩倉具視らの機先を制する狙いがあった.当時彼らは倒幕の密勅を引き出していたからである(この密勅はどうやら偽勅らしいのだが).
案の定,大政奉還によって朝廷内の空気は一変した.政権を返上されたところで,朝廷には政治を行うノウハウも資金もなかったからだ.徳川家康以来の統制によって朝廷は赤貧状態に置かれていた(朝廷用として禁裏御料3万石があったが,実際には幕府から派遣された禁裏付の旗本が目を光らせているため,自由に使えるお金はほとんどなかったらしい).結局朝廷は自分に泣きついてくるはずと慶喜は考えていたのも理のないことではない(実際に一時はそうなりかけた).
 しかし,西郷や岩倉ら武力討幕派は若い天皇を抱きこんで,一気に巻き返しに出た.王政復古のクーデターである.慶応3年12月8日宮中において,徳川慶喜や山内容堂欠席の中,一部公卿や大名(安芸,尾張,越前など)で朝議が行われ,岩倉や三条実美の蟄居取り消し,元治元年以来の長州藩の朝敵取り消しが決定した.その直後蟄居を解かれたばかりの岩倉が登場し,勅命による王政復古を宣言したのである.さらに翌12月9日未明には,薩摩などの王政復古派の藩兵が御所を襲撃,警備についていた会津,桑名の藩兵を追い出し御所を制圧した.こうした中で開かれた小御所会議で,徳川慶喜の辞官・納地が決定したのである.慶喜にとっては予想外の展開であった.
 
 当然ながらこの決定に対し,会津・桑名両藩の藩士たちや新選組は激昂し事態は一触即発となる.ここでケイキさんはひとまず軍を大坂城に引き上げ,対峙する構えを見せた.王政復古といっても,新政府には政治を行う組織もお金もない.また新政府内といっても武力討幕派一色というわけではなく,山内容堂や松平春嶽など穏健派もいて勢力は拮抗していた.国内外に問題が山積している時代であり,政治の空白は許されない.従ってこのまま時間が経過すればするほど,新政府の立場は不利になり,諸外国にも相手にされなくなって,必ず自分に泣きついてくるだろうと考えたのである.慧眼である.桂小五郎をして「徳川家康の再来ではないか」と言わしめたのもうなずける.
 しか〜し,策略という点では西郷隆盛の方が一枚上手だった.
 

鳥羽・伏見の戦いの後,江戸城無血開城を実現させた勝海舟
 
  西郷は配下の浪士達を江戸に侵入させ,薩摩藩邸を拠点に放火や破壊などの乱暴狼藉を働かせたのである(この中に,後に慶応4年赤報隊ニセ官軍事件で処刑される相楽総三も混じっている).この薩摩の挑発に江戸の新徴組が乗ってしまい,慶応3年12月25日に薩摩藩邸を襲撃した.この話が大坂に伝えられ,いよいよ会津・桑名ら諸藩の怒りは沸騰寸前になり,もはや誰も抑えられなくなってしまった.ついにケイキさんもキレてしまい,「勝手にしろ!」と言ってしまったのである.  
 こうして慶応4年(1868年)1月3日鳥羽・伏見の戦いが勃発した.その後の展開は歴史が示すとおりであるが,慶喜は「自分もここで戦うぞ」と宣言しておきながら,1月6日夜こっそりと,会津藩主松平容保,桑名藩主松平定敬らを連れて大坂城を脱出し,江戸に逃げ帰ってしまったのである.かくして徳川幕府の命運は尽きた.江戸に帰ってからのケイキさんは,残務処理は勝海舟にまかせ,薩長の矛先は会津藩に向けさせ,自分はひたすら恭順の姿勢をとったのである.
 維新後のケイキさんは政治にかかわることはなく,楽隠居として写真や乗馬などの趣味に生きる生活をして,大正2年(1913年)に77歳で亡くなった.晩年の1902年には華族の最高位である公爵に列せられている.

晩年の徳川慶喜公爵
 
 歴史上の人物の評価は難しいが,徳川慶喜の場合は,幕末の最終段階までは持てる才能をフル回転させて,倒幕派と対峙したものの,最後の最後でキレてしまい,自己保身に走ったといえるのではないか.最高責任者として「勝手にしろ」と言って戦争を始めながら,さっさと逃げ出し,責任を部下(松平容保以下会津藩)に押し付けるがごとき行為は君主失格といわれても仕方がないかもしれない(もちろん彼を擁護する議論もあるのだが).
 翻って,第14代将軍徳川家茂は,将軍在位期間も短く歴史的には地味な存在であるものの,人格にもすぐれ多くの人々の敬愛を集めていたという(勝海舟をはじめ,家茂の人柄に惹かれた幕臣は多い).江戸城明け渡し後,多くの旧幕臣が各地で戦ったのも,慶喜のためというより,先代家茂のためだったのかもしれない.
 

 

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