私が学生時代を過ごした1980年代というのはバッハ演奏において大きな変化の見られた時期である.それはオジリナル楽器を用いた比較的少人数編成でのバッハ演奏が脚光を浴び始めたことであった.オリジナル楽器でのバッハ演奏の老舗ともいうべきニコラウス・アーノンクールをはじめとして,クリストファー・ホグウッドやジョン・エリオット・ガーディナー,グスタフ・レオンハルト,トレバー・ピノックなど多くの古楽演奏家たちが新しい録音を次々と発表していた時期であった.オリジナル楽器によるバッハ演奏は現在ではかなりスタンダードなものと認知されているが,1980年代にはまだ奇異な目で見る向きもあったのである. |
これがVHDビデオディスクのデッキです.今でも何とか動くことは動きます(画質は保障できませんが). |
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オリジナル楽器でのバッハ演奏が脚光を浴びるようになった理由のひとつが1981年2月15日のカール・リヒターの死であることは間違いない.何といってもあの時代(1980年頃)のバッハ演奏におけるリヒターの地位は絶大であった.当時は今と違ってバッハのレコードやCDが少なかったせいもあるが,学問的研究(なにせ本職は大学教授)に裏付けられたリヒターのバッハ演奏は他の追従を許さなかったのである.当時クラシック音楽界で絶大な影響力を持っていたカラヤンやベームといった指揮者達もバッハの宗教作品にはアンタッチャブルであったようだ(カラヤン指揮のロ短調ミサ曲の録音もあるにはあるが,その出来たるや,リヒターのものと比較することすらおこがましいシロモノである).今ではメジャーなヘルムート・リリングもリヒターの亜流と言われていたし,1960年代から地道にオリジナル楽器でのバッハ演奏をやっていたアーノンクールに至っては「誰それ?」というありさまであった.まさにバッハといえばリヒター,リヒター以外にバッハなしという一党独裁,一極支配の状態だったのである.
そんなリヒターが急死した(1981年2月15日朝ミュンヘン市内のホテルに宿泊中,フロントに「胸が苦しい」という電話がありその直後に死亡したという.状況から見て急性心筋梗塞と思われる).まだ54歳という若さであった.どんな世界でも大物が死去するとその反動がおこる.リヒターという巨大な重石がなくなったバッハ演奏にも新しい潮流が起こり始めたのである.私が大学に入った1980年代とはそんな時代であった. |
リヒターの1971年収録のマタイ受難曲.最初はこれを見るためだけにVHDを買いました. |
ブランデンブルグ協奏曲全曲.特に5番ではリヒターの神業的チェンバロテクが見られます. |
VHDディスクはこんな感じに白いケースの中に黒い塩ビ製のソフトが入っています. |
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