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越の范蠡


臥薪嘗胆

 司馬遷の史記には多くの魅力的な人物が登場しますが,今回は越の范蠡の話題です.范蠡の生没年や越王勾践に仕えるようになったいきさつについてはよくわかりません.ただ,彼が活躍したのが紀元前5世紀,春秋時代末期であることは確かです.

 春秋時代とは,異常気象で春と秋しか季節がない時代という意味ではありません.古代中国の周王朝の一時代のことで,歴史書「春秋」に記述された時代であることに由来します.具体的には,周の幽王が殺されて,都が鎬京から東の洛邑に移った紀元前770年から,春秋時代の大国晋が韓魏趙の三国に分裂した紀元前403年までをいいます.

 そんな春秋時代の末期に長江沿岸に出現した新興国家が呉と越でした.今でも呉越同舟などという慣用句に使われるように,当時両国は20年以上もの長きにわたって激しく戦ったのです.

 この時越王勾践に仕え,軍師として活躍したのが范蠡です.
越で勾践が即位した時,呉王の闔閭(コウリョ)は越を滅ぼすチャンスとばかりに兵を進めます.しかしこの時范蠡は罪人からなる部隊を編成し,恐るべき作戦に出ます.それは罪人部隊を呉軍の陣地前まで進ませて,そこで全員自分で自分の首を刎ねさせたのです.これはあらかじめ,そうさせることによって,罪人の家族を許し生活を保障すると范蠡が約束したからです.
一方でこの光景を目の当たりにした呉軍の兵士は震えあがりました.その隙をついて越の精鋭部隊が反撃を開始,この戦いで闔閭は負傷,その傷がもとで死んでしまったのです.

 その後,闔閭の後を継いで呉王になったのが夫差(フサ)でした.彼は庭に人を立たせて,自分がそこを通るたびに
「夫差よ,お前の父を殺したのは越王であることを忘れたか」
と言わせ,一方で薪の上に臥し,その痛みによって父の恨みを忘れないようにしました.これが臥薪です.

 そして3年後,いよいよ呉軍の反撃準備が整います.しかしこの時勾践は呉の機先を制するため,先手を打って呉を攻める決断をします.范蠡はこれに反対しますが,勾践の決意は固く開戦となります.しかし復讐の執念に燃えた呉軍は強く,越軍は大敗を喫して会稽山に包囲されてしまいました.
家臣の忠告を無視して敗れた勾践は死を覚悟しますが,范蠡はひそかに策略をめぐらします.まずは呉王夫差の側近が欲深い人物であるのに目を付け,これを買収することで夫差に工作すると共に,使者として文種を使わして夫差の説得にあたったのです.夫差の軍師だった伍子胥は越を滅ぼすことを主張しましたが,結局范蠡の工作が勝って勾践は許されました.

 許されて帰国した勾践は常に自分のそばに肝を置き,それを舐めてその苦さによって屈辱を忘れないようにしたといわれています.これが嘗胆です.
   


見事な転身

 その後越では内政は文種が,外交と軍事は范蠡が担当してみるみる国力を回復していきます.一方呉王夫差は越のことなどすっかり忘れて,中原に兵を進めて自ら覇者になろうとします.これに異を唱えたのが伍子胥でしたが,逆に夫差に疎んじられてついには自害させられてしまいます.こうして徐々に国力をすり減らす呉と国力が増強する越のパワーバランスが崩れていきます.

 そして会稽山での屈辱から10年後,ついに機会がやってきます.夫差が呉の主力を率いて中原に進出,呉本国が手薄になったのです.越軍は侵攻し、たちまち呉を占領します.驚いた夫差は軍を率いて帰国し,とりあえず和睦を求めます.この時范蠡は,自分たちにはまだ呉を滅ぼすだけの力はないと自覚していたため和睦に応じました.

 しかし,この時の戦いで呉は疲弊してしまい,以後越との国力の差は開く一方になります.そして数年後ついに越は呉を破り,夫差は姑蘇山に包囲します.会稽山から22年目のことです.

 この時夫差は22年前のことから,許すように訴えました.過去のいきさつがある勾践は夫差を許そうとしましたが,范蠡は

「かつて会稽で天は呉に越をたまわったのに,呉はそれを受けなかった.だから今のことがある.今天は越に呉をたまわっている.これを受けずにどうするのか,この22年間の苦労をみすみすとり逃がしてよいのか」

と言って,勾践を諌めました.

 結局勾践は夫差を地方に流すことで許そうとしましたが,夫差はそれを恥じ,自害して果てたのです.これが有名な呉越の戦いの顛末です.ここまで見てきて明らかなように,越の最終的な勝利には范蠡の働きがいかに大きかったかがわかります.

 で,問題はここからです.
越が呉に勝利すると,范蠡は大将軍に任命され,ここに位人身を極めました.しかし彼は,すぐにその職を辞し越を去ったのです.勾践はもちろん慰留しましたが,彼は決意を変えませんでした.この後范蠡は東の斉の国に行き,名を鴟夷子皮(しいしひ)をあらためます.そしてここから越に残った文種に手紙を出します.これにあるのが以下の有名なフレーズです.

飛鳥尽きて良弓蔵され、狡兎死して走狗烹らる
(飛ぶ鳥がいなくなれば良い弓はしまわれる.すばしっこいウサギがいなくなれば,用済みになった犬は煮殺される),越王は苦労を共にできる方ではあるが,富貴を共にはできないお方だ.あなたはどうして越に留まっているのか」

 結局范蠡の忠告に従わなかった文種は越王によって粛清されてしまったのです.

 一方の范蠡は斉で商人となり,ここで一財産築きます.その噂を聞きつけた斉王は彼を宰相として招きますが,彼は「名が上がりすぎるのは不幸のもと」と,財産をほとんど人にあげてしまい,今度は陶に移って陶朱公を名を変え,ここでも成功を収めたのです.

 かくして范蠡は優れた軍師としての前半生と商人としての後半生共に成功を収めた人物として後の人々から理想的な処世術として尊敬されているのです.

 同じ「飛鳥尽きて良弓蔵され、狡兎死して走狗烹らる」
という言葉を発した後の韓信と比較して,その身の処し方はなんと見事なものでしょう.
   



 

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