知識はすべて経験から得られ,本来人間の精神は白紙状態であったと考えるイギリス経験論に対して,大陸の合理論では人間の理性は元々天性に備わっているものと考えます.そして,経験の積み重ねで真理に近づこうとする経験論に対して,絶対的真理から全ての法則を導こうとする立場を取ります.これが帰納法に対して演繹法と呼ばれるものです.
デカルトは,この最初の絶対的な真理を見つけるために,いったん全てのものを疑ってかかります.たとえば,今窓の外を黒い外套を着た男が通り過ぎて行ったのを目撃します.
普通の人は「あっ,黒い外套の男が通り過ぎて行ったな」と思います.しかし,これは真理とは限りません.なぜなら,実は女だったかもしれないし,もしかしたらあなたを騙そうとした悪人が,屋根の上から吊るしただけの外套を窓の外で揺らしただけかもしれないからです(だとしたらその悪人はよっぽどヒマなんだねという議論は置いておきます).
私たちの感覚というものは決していつも正しいとは限りません.歩いているという感覚だって,実際に歩いている時以外に,たとえば,夢の中でだって実際には歩いていないのに,私は歩いているとリアルに感じることもあるからです.
こういう風に次から次へと疑っていくと,正しいと思えるものはどんどん無くなって行きます.しかし,今この瞬間何かを考えている自分という存在自体は疑いようのない真実です.これが有名な「我思う,故に我有り(cogito ergo sum コギト・エルゴ・スム)」というフレーズです.そしてデカルトはここから,真理の体系を作り上げようとしたのです.
ただし彼はこういった全てを疑う姿勢を実生活には持ち込んではいけないとも言っています.なぜなら,そんなことをしていたら世の中で暮らしていけないことは自明の理だからです.デカルトにはそんな現実的な部分もあったわけです.
実際,倫理学の分野において彼は,
「完全なる倫理学が完成するまでは,とりあえず仮の道徳で生きていくしかない」
(自分の家が完成するまでの仮住まいの家という感じでしょうか).
と言っています.これがデカルトの格率というもので,簡単に表現すると
第一の格率: 我が国の法律や習慣に従うこと
第二の格率: 自分の行動すにおいて,できるだけしっかりとした,またきっぱりした行動を取ること
(いったんこうと決めたら,それに向かって突き進み,コロコロと方針を変えないこと).
第三の格率: 常に運命よりも自分の欲望に打ち勝つように努力すること
(我々が制御可能なのは自分の思想だけで,外にあるものは必ずしも制御できるわけではないから).
となります.絶対的な真理から諸理論を作ろうとする一方で,それが容易ではないことを理解して現実との妥協も図っているわけです.デカルトの合理主義の面目躍如でしょうか.
デカルトの著書としては「方法序説」が非常に有名です.
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