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 日本三名橋

 都市は川沿いに形成されることが多い.これは扇状地や三角州といった川沿いの平野が人間の定住に適した地形であることに加え,これらの河川が都市住民の生活を支える水源となるからである.
 そのように人間の生活にとって重要な河川であるが,一方で移動の際には要害のポイントとなる.現在でも川の事故で亡くなる人が後を絶たないように,川は人間の移動をおおいに妨げるものとなっている.
 そんな川を安全に渡る手段となるのが橋であり,昔から川に橋を架けることは為政者の重要な仕事だった(江戸時代には逆に人の交通を規制するためにあえて橋を架けないという政策もあったが).架橋には高度な土木技術が必要であるが,一方で都市景観の一部を担うという美術的な側面もある.こうした技術性と芸術性を併せ持った橋が古来名橋と呼ばれるものである.河川の多い日本には古来名橋と呼ばれるものも多いが,特に日本三名橋という場合は東京の日本橋,岩国の錦帯橋,長崎の眼鏡橋の3つをさす.
 

その1 日本橋 (東京都中央区)

 歌川広重の東海道五十三次にも描かれている江戸の日本橋,現在の住所だと東京都中央区になる.小石川橋付近で神田川から分流し,永代橋付近で隅田川に合流する日本橋川に架かる橋だ.橋の歴史は江戸開府に遡り,最初の橋が架けられたのは1603年,まさに徳川家康が征夷大将軍に任命され江戸幕府が成立した年である.
 江戸時代の日本橋は木造だったこともあり,火事で何度も焼け落ちた.しかし重要な施設であることからその都度再建がなされている.そして明治44年に石造りの橋となり現在に至る(この橋が19代目といわれる).
 日本橋は江戸時代,江戸を起点とする主要街道の出発地でもあった.その役割は現在も変わっておらず,国道1号(小田原方面),4号(宇都宮方面),6号(水戸方面),14号(千葉方面),15号(横浜方面),17号(高崎方面),20号(甲府方面)の起点はすべてこの日本橋である.現在橋の道路中央には日本の道路の中心であることを示す日本国道路元標が埋め込まれている(ただしここは交通量が非常に多く,観光客が見たり写真を撮ったりするのは非常に危険なため,付近の歩道にレプリカが展示されている).一方景観面では昭和38年(1963年)に直上を首都高が走るようになったため非常に残念な状況になっている.

 (訪問日 2014年3月1日)

東海道五十三次の日本橋

現在の日本橋.上を走る首都高が残念

道路は中央通りでにぎわいを見せる
 

案内板

道路元標のレプリカ

本物の道路元標
 



その2 錦帯橋 (山口県岩国市)

 山口県の瀬戸内海側に位置する岩国は,関ヶ原の戦い後に毛利家の家来筋だった吉川広家に整備された城下町である.当時は未だ戦国の遺風が残っていた時代であり,城郭は横山の山頂に築かれた山城であった.一方で城下町は城の麓に領主の居宅である御土居や上級武士の家が置かれ,商家や下級武士の家は錦川を挟んだ対岸に建てらる構造になっていた.これは万一戦になった場合,錦川を天然の堀として防御に役立てる考えであった.
 しかし太平の世になると,200メートルもの川幅を持つ錦川によって分断された城下町は不便この上なく,両地域を行き来できる橋の建設が強く望まれた.こうして1630年代から架橋が行われたものの,当時の橋は脆弱で川の増水によってたちまち流出してしまうありさまだった.岩国領3代目の領主吉川広嘉は錦川に数か所の強力な土台を築き,それらを複数のアーチ橋で繋げる研究を命じた(これは中国・杭州の西湖の小島に架かるアーチ橋の絵にヒントを得たといわれている).こうして延宝元年(1673年)に完成したのが初代の錦帯橋である.この橋は翌年には洪水で流出してしまったものの,土台の補強など改良が加えられて再建,以後昭和25年(1950年)の台風による流出まで270年あまり存続し続けた.
 現在この地にある錦帯橋は昭和28年(1953年)に再建されたもので,以後も修復を加えながらその雄姿を見せている.

 (訪問日 2006年10月7日,2008年10月5日)

五連のアーチ橋

横山山頂から見た錦川と錦帯橋

当然アップダウンがある
 

記念撮影

底面はこうなっている

屋形船も見える
 



その3 眼鏡橋 (長崎県長崎市)

 長崎市の中心部を流れる中島川には数多くの橋が架けられている.その多くは石造りの橋で,そのルーツは江戸時代前半に遡る.それらの石橋の中でも最古のものが表題の眼鏡橋である.
 長崎は戦国末期から江戸初期にかけてキリスト教徒(キリシタン)の多かった土地であり,幕府は禁教政策を進めるとともに,唐文化の積極的な導入を図った.臨済宗・曹洞宗に続く禅宗の一派である黄檗宗もその一つであり,長崎の興福寺は日本最古の黄檗宗の寺でもある(初期の興福寺の住職はみな明や清など大陸出身だった).その興福寺の2代目の住職黙子如定が嘉永十一年(1634年)に架けたのが眼鏡橋である.当時の長崎は海外貿易の拠点として出島が建設されるなど人口が増加し,中島川への架橋が必要だったのが建設の理由である.そしてこの眼鏡橋が日本で最初の石造りのアーチ橋であった.当時国内にはまだ石造りアーチ橋の建設技術がなかったのである.ちなみに眼鏡橋の名は川面に映った時の姿が双円形で眼鏡を彷彿させるからと言われている.
 この後中島川には数多くの石橋が造られ,その多くが水害を耐え昭和期まで残っていた.しかし昭和57年(1982年)の長崎大水害によって6つの橋が流出し,眼鏡橋も流出は免れたものの大きなダメージを受けてしまった(翌年再建).
 現在眼鏡橋は国の重要文化財に指定されている.

 (訪問日 2016年7月16日)

たしかに川面に映る姿は眼鏡のよう

反対側からの構図

車両は通行できません
 

記念撮影

擬宝珠

案内板
 



 

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